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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに
第3回 映画と観客
第4回 美少女チャン・ツィイーに捧げた愛の詩
第5回 アニメーションの冒険
第6回 映画の宝物
第7回 羽仁進とジャン・ルノワール
第8回 誰が映画を殺すのか
第9回 映画の後で
第10回 映画戦線異状なし?
第11回 「映画」から遠く離れて
第12回 年末年始は映画三昧












 1960年代のジャン=リュック・ゴダール監督の作品――ポーリン・ケイルの評言を借りれば「最も豊穣だった60年代ゴダール」――のなかで、この『はなればなれに』(1964)だけが昨年まで日本で未公開だったのは、モノクロ作品であることやアメリカの映画会社コロムビア(現ソニー・ピクチャーズ)の世界配給だったことなど、いろいろな理由はあるのかもしれないが、それが、とにかく1998年の「アニエスb.映画祭」で上映されたのをきっかけに、ついに日本でも劇場公開され、そしてDVD化された。これぞ快挙と叫びたいくらいのうれしさだ。

 ジャン=リュック・ゴダール監督の長篇映画の第1作は『勝手にしやがれ』(1959)で、第2作の『小さな兵隊』(1960)からアンナ・カリーナがヒロインになる7本の傑作群(とよびたいと思う)がつづく。『女は女である』(1961)、『女と男のいる舗道』(1962)、『はなればなれに』(1964)、『アルファヴィル』(1965)、『気狂いピエロ』(1965)、そして『メイド・イン・USA』(1966)。


『はなればなれに』
 私は寺尾次郎氏といっしょにこれらのゴダール/カリーナ作品の日本語字幕スーパーの翻訳にもかかわったので、いっそう愛着があるのだが、このダジャレだらけの陽気でデタラメなおふざけ映画とも見える『はなればなれに』がいかに悲痛な青春映画になっているかは一目瞭然だろう。

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」という店(たしかパリの靴店のチェーンだったと思う)のネオンが見えたり、冬空の下のセーヌ川を「ランボーの酔いどれ〔船が行く〕河」に見立てたり、乱暴な父親を持つアルチュール(クロード・ブラッスール)がオディール(アンナ・カリーナ)の前でジャン・ルノワール監督の『コルドリエ博士の遺言』(1959)のオパール氏に扮するジャン=ルイ・バローの滑稽なほどギクシャクした奇怪な歩きっぷりを敬意をこめてまねしてみせたり、いつもながらの多彩で奔放なゴダール式引用をちりばめたコラージュなのだが、エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」やシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の引用あるいは言及とはまた一味違ったゴダール的コラージュがある。ゴダール映画の秘訣とも言うべきか。たとえば、『勝手にしやがれ』でジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグが『決闘ウエストバウンド』――1958年のバッド・ベティカー監督、ランドルフ・スコット主演の西部劇である――の看板のかかった映画館に入る。フランス語吹替え版のせりふがスクリーンから聞こえてくるのだが、それはジェシカという名の女と保安官のやりとりの形で、ルイ・アラゴンの詩「エルザ 君を愛する」(「かずかずの口づけの断面に/歳月はあまりにも早く過ぎて行く/避けよ 避けよ 避けよ/くだかれた思い出を」、橋本一明訳)とアポリネールの詩「狩の角笛」(「僕らの恋のいきさつはお上品だが劇的だ/暴君の顔の表情そっくりだ/突飛な事件やごまかしや/さては些細(ささい)な出来事が/僕らの仲を激化した形跡なぞはさらにない」、堀口大學訳)からの引用を組み合わせたものである。その見事なコラージュはまるでニコラス・レイ監督の西武劇『大砂塵』(1954)のジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)と酒場の女主人(ジョーン・クロフォード)の「詩的な」愛の語らいのような印象を与える。

 『アルファヴィル』のなかでも、エディ・コンスタンティーヌはポール・エリュアールの詩集「苦悩の首都」を手に持って、ページをめくりながら、アンナ・カリーナに向かって、詩をいくつか読み上げるのだが、それらの詩はすべてポール・アリュアールの他の詩集からの引用で、「苦悩の首都」のなかの詩は1行もない。それはまさにゴダール式コラージュなのだ。


『はなればなれに』
 同じように、『はなればなれに』では、フランツ(サミー・フレイ)がオディール(アンナ・カリーナ)に、「彼女の名とそっくりの小説」――レイモン・クノーの「オディール」――を買ってきて、その最後の1節を読むところがある。

 「ひとりの男が或る日、あるホテルにあらわれて、部屋をかりたいと申し出た。35号室が空いていた。やがて数分後にその男が部屋からおりてきて、事務所に部屋の鍵をかえしながら、こう言った――“ちょっとお願いがあるんだが、じつは私はひどい健忘症なんだ。で、私が外から帰った時には必ず、ドルイ氏だというふうに自分の名前を言うからね。そのたびに私の部屋の番号を教えて下さらんかね”――“承知しました”。その後まもなく彼はもどってきて、事務所のドアを細目にあけながら――“ドルイ氏だ”――“35号室でございます”――“ありがとう”。その後1分ほどして、泥だらけの洋服を着、血だらけになって、ほとんど人間の顔とは思われないばかりに顔のつぶれてしまった1人の男が、異常に興奮しながら入ってくるなり、事務所にむかってこう言った――“ドルイ氏だ”――“なんですって? ドルイ氏ですって? からかっちゃいけませんよ。ドルイさんは今さっきお部屋に上がってらしたばかりですよ”――“失礼、じつはそれが僕なんだ。いま窓から外におっこちたところなんだ。ところで僕の部屋は何番でしたかね?”」

 これは、もちろん、レイモン・クノーの小説「オディール」の最終章ではなく、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」(稲田三吉訳)のなかの「ひどく馬鹿げた、ひどく不気味な、だが非常に感動的な話」からの引用なのである! (「オディール」の最終章は映画の最後のナレーションの形で引用される)。

 コラージュとは何か。「広辞苑」(岩波書店)には「シュールレアリスムの一手法。画面に紙・印刷物・写真などの切抜きを貼りつけ、一部に加筆などして構成する。広告・ポスターなどにも広く応用。ブラック・ピカソらが創始。貼付け絵」とある。「大辞泉」(小学館)にも「現代絵画の一技法」で「ダダイズムやシュールレアリスムで多用され、今日では広告などにも用いられる」とあり、ほぼ同じ説明と定義になっている。

 ゴダールの映画手法をコラージュとよんだのはシュールレアリストの詩人、アラゴンであった。

『はなればなれに』
監督・脚本/ジャン=リュック・ゴダール
出演/アンナ・カリーナ
1964年/フランス映画
1時間36分
¥4800(税別)
発売/紀伊国屋映像事業部



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