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ジャン=リュック・ゴダール監督の最新作『Eloge de l' Amour』(たぶん『ゴダールの愛の賛歌』の邦題で公開されることになるだろう)の日本語字幕(寺尾次郎訳)のお手伝いをさせてもらったのだが、相変わらず、いや、ますます、ポーリン・ケイルふうに言えば「ちんぷんかんぷん」で、引用とその組み合わせ――コラージュ――を原理とするゴダール的映画づくりだけは変わっていないと思われるものの、バルテレミー・アマンガルふうに言えば「哲学を遊泳する」ゴダールの無数の、あるいはむしろ無限の引用の渦に溺れるか、もしくは遠くの岸辺に呆然とたたずむしかないのだが、出典はともかく、こんなせりふが出てくるのである。それは、「これから前進しようとする者は過去の自分をもはや存在しないものとみなす」のに反して、「過去にこだわる」人間は「老人の大半がそうだが、衰えたくないので時の流れを拒む」というのである。
私は単純な映画ファン、生粋のゴダール・ファンとして、たとえ時の流れにさからっても、どうしても1960年代のゴダールにこだわりつづけたいと思うものの、ゴダール自身はそんな過去のファンを冷たく突き放して、つねに「これから前進しようとする者」でありつづけているかのようだ。
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『愛の賛歌(仮)』
監督・脚本:ジャック=リュック・ゴダール
出演:ブルーノ・ブュツリュ
セシル・カンプ
1999-2000年/フランス映画
98分
配給:プレノンアッシュ
2002年GW 日比谷シャンテにて公開予定 |
ふと、埴谷雄高の『追跡の魔』という小説というより哲学的思考のような短篇の「ひたすら闇の前方へと浮遊していった」という難解な一説を思い出す。
「前方へ」――この表現は、敢えていつてみれば、まさに「誤つている形容」なのであつた。さらに敢えていえば、私は、そのとき、ひたすら闇の「前方へ」浮遊していたのである。というのは、右手を高く頭上にさしのばし左足を強く蹴ったやや俯向きの遊泳の姿勢をとつて、いわばあたりにそぐわぬ1本の微細な棒状の直線となつた私は、頭部の方向へむかつて、果てもない闇の空間の海を泳いでいたからである。そして、前方へ進む私の速度は、何処かから追つてくる見えない魔の絶えざる脅かしの迫力とまさに同一といわねばならぬのであつた。
すでに、いわば「芸術史を遊泳する」ゴダールの集大成的な『映画史』(1988〜99)が、「前方へ」「前方へ」と闇のなかを疾走しながら「過去」という「見えない魔の絶えざる脅かしの迫力とまさに同一」の「速度」に縛られたゴダールの果てしない饒舌と思索、その栄光と悲惨(とゴダールは自ら告白するのだ)をうんざりするほど見せつけられたような気がする。なんという苦痛を強いる「芸術の哲学」だろう――「映画」から遠く離れて。
1968年5月――「5月革命」――以後のゴダール、「変貌」以後のゴダールの独特の映像作業とも言うべきものなのだろうが、憑かれたような観念とイメージがところかまわず混在して、凡人にはとても追いつけない「高み」に浮遊しているゴダールだ。単なる映画ファンは取り残されるだけである。
「60年代のゴダール作品にポップな明晰さを与えていたあのけばけばしい原色、あの同時代性が、わたしは恋しくなった」とすでに、1983年のゴダール作品『カルメンという名の女』を見て、「ニューヨーカー」誌の女性批評家、ポーリン・ケイルは書いていたものである。「当時の――60年代の――ゴダール作品は、つねに観客の胸をおどらせた。しかも、ずうずうしく、歓喜にみちたやりかたで」。
そして、こうもつづけて書いていたものだ。「現代映画の最大の革新的芸術家――映画に新しいエネルギーを吹きこんだ人物――の評判高い新作が、『カルメンという名の女』のように貧相で気取った作品なのは、大きな期待外れだ」(「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」、浅倉久志訳、晶文社)。
モノクロの『勝手にしやがれ』(1959)や『女と男のいる舗道』(1962)、つい最近リバイバル公開された『カラビニエ』(1963)、劇場初公開の『はなればなれに』(1964)はもちろん、『女は女である』(1960)や『気狂いピエロ』(1965)や『ウィークエンド』(1967)がなつかしい。アンナ・カリーナがデビューしそこなった『勝手にしやがれ』もふくめて「アンナ・カリーナ時代」のゴダール映画のすばらしい思い出にいまもなお心ときめくのは私だけではないだろう。

(C)GAUMONT 199
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『映画史』
監督・編集・出演・声:ジャン=リュック・ゴダール
4時間26分
1988-1998年/フランス映画
DVD:¥32000(税別)
発売:IMAGICA
販売:紀伊國屋書店 フランス映画社提供
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