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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに
第3回 映画と観客
第4回 美少女チャン・ツィイーに捧げた愛の詩
第5回 アニメーションの冒険
第6回 映画の宝物
第7回 羽仁進とジャン・ルノワール
第8回 誰が映画を殺すのか
第9回 映画の後で












 東京国立近代美術館フィルムセンターでは「日本映画の発見」というテーマで年代別に特別上映をつづけているが、「1960年代(1)」の上映作品で羽仁進監督の長編劇映画第1作『不良少年』(1961)を久しぶりに見て感動をあらたにした。多感な(?)青春時代に興奮して見た50年代、60年代の多くの映画に正直のところ失望した(というか、見直さなければよかったと後悔した)ものだが、『不良少年』だけは――たぶん前田陽一監督の第1作『にっぽんぱらだいす』(1964)とともに――例外だった。『不良少年』という映画をそのまま生きたような男がいた。感化院に入れられ、そこから出て、やがて会社を設立し、社長になった。私はその社長の下でちょっと仕事をしたことがあるのだが、その社長にとっての「青春の映画」、いや、「生涯の1本」が『不良少年』だった。あんなにすばらしい映画は見たことがない、俺の青春そのものだ、あれは俺の映画だ、と言って社長は涙を流した。ちょうどそのとき、いまはなき東京・銀座の名画座「並木座」で『不良少年』を上映中だったので、私は社長にそのことを伝えた。社長はすぐに見に行ったようだ。そして、こう言ったものだ。「いま見たら、くだらねえの。あんな映画のどこがよかったのかね。甘っちょろくて見てられなかったな」。

 これこそ『不良少年』という映画が真の傑作であり、偉大な「教育映画」の証明ではないだろうか。少なくとも、ひとりの不良少年を救った映画なのだ。不良少年は実人生において成功し、社長になり、映画『不良少年』を卒業し、超えてしまったのである。現実が映画をしのいだのだ。まさに「映画が私たちを作った」ことの、これは見事な証明なのだと言えないだろうか。

 社長は1974年12月のクリスマスのディナーショーに歌手としてのマレーネ・ディートリッヒを招いた呼び屋(などと言っては失礼かもしれないが、いわゆるプロモーター)で、プロダクション「ユニヴァーサル」(だったと思う)の代表だった。故・竹中労氏、当時「キネマ旬報」編集長の白井佳夫氏がこのイベントにかかわっていて、私はディートリッヒのショーのためのプログラムの編集をたのまれたのであった。

 『不良少年』はモノクロの映像で、東京の街頭の風景からはじまる。「俺は銀座を歩いたことがない。護送車のなかから見ただけだ」という主人公の少年(山田幸男)の声が都心の街路を走る護送車の遠景にダブッて入る。キャメラは走る護送車をとらえ、『不良少年』のタイトルのあと、少年院に到着した護送車から手錠をかけられた少年たちが降りてくる俯瞰ショットにかぶさって、「この映画は記録的手法によっているが、すべては作者の創作と構成の責任である」という字幕が入る。次いで、「この映画の撮影に協力してくれた少年達の友情に心から感謝します」という字幕が入るときには、すでに少年院のなかである。

 少年院に収容された少年たちの手記「とべない翼」(地主愛子編、理論社)を原作として、『教室の子供たち』(1955)や『絵を描く子どもたち』(1956)などの短編記録映画作家、羽仁進が「脚本・監督」、「撮影」金宇満司、「監督補」土本典昭という岩波映画はえぬきのスタッフに「音楽」武満徹という、いまになってみると大変な豪華版だ。

 劇映画なのだが、実写も入って(はじまりは純粋なニュース映画だ)、ラフなようで微妙に演出されたドキュメンタリーといった趣があり、一見素人っぽいところまでが不思議に新鮮な魅力がある。隠し撮りの部分も多いらしいことがわかるが、そうではない「演出」の部分では、少年たちはみな、いわば自分自身を演じているので、自然らしさというよりはぎこちなく、それがかえって、最も多くの場合リアルで生々しい。「この映画の演技は即興的に行われるように僕としては配慮した。それは、演技によって物語を説明するのではなくて、演じている人々に自己を表現してほしかったからである」と羽仁進監督は書いているが(「キネマ旬報」1961年2月下旬号)、それはまったくフランスのヌーヴェル・ヴァーグの手法と同じだったと言っていいだろう。フランソワ・トリュフォー監督がとくに『不良少年』の羽仁進監督に親密感を抱いていたのもうなずかれよう。「少年達が、演技を通じてせいいっぱいに生きることを、僕の演出としては最大の目標にしている」し、「これが少年達にとっては楽しい経験であったように祈っている」と羽仁監督はまたつづけて書いているが、まるで『大人は判ってくれない』(1959)や『トリュフォーの思春期』(1976)のトリュフォー監督の言葉のようである。

 1968年末、『初恋・地獄篇』を撮り終えた羽仁監督にインタビューをしたとき、まるで、トリュフォーが師と仰いだイタリアのネオレアリズモの巨匠、ロベルト・ロッセリーニ監督のように、羽仁監督は「空間が開かれている」映画のフレームについて語ったものだった。

  僕の映画には何が入ってくるかわからないところがある。空間が開かれているということですね。それをプロデューサーたちは非常にいやがる。安心できないというわけです。途中まで見てて、これでいいと思っていると、全然関係ないものが入ってきてしまうって言うんです。実際、僕は、映画を撮っていて、フレームがひどく気にかかるんです。いつも自分でキャメラのファインダーをのぞいて見て決めるんだけども、それはフレームで外の世界を排除するのではなくて、逆に、外からなんでも入ってこれるようなフレームにしたいわけです。だから、そのフレームは、いつも自由に何でも入ってくることができる開かれた空間であって、その意味ではつねに不安定な感じであるし、また、そこでは、ペシミスティックになるかオプティミスティックになるかということは非常に微妙なわけです。というのも、いままでは、ペシミズムもオプティミズムも、それ自体ひとつのパターンであって、ペシミズムがあれば、そのパターンを原理として全部撮られてゆくとか、オプティミズムがあれば、そのパターンですべて撮られてゆくという形だったわけです。そのほうがプロデューサーたちにとっても安心なわけですね。僕の映画の場合は、そこがすごく微妙なんですね。(「季刊フィルム」1969年2月号)

  羽仁進監督の作品は、いわば、無限に計算された自由な映画だ。野田真吉氏ふうに言えば(「日本ドキュメンタリー映画全史」、教養文庫)、「リラックスした自由なつくり方」が羽仁監督の得意業なのである。

それで思いだされるのは、やはり1969年の初めに、『神々の深き欲望』(1968)を撮り終えたあとの今村昌平にインタビューをしたときに、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』(1965)のキャメラ(『不良少年』のときと同じ金宇満司)のチーフ〔助手〕だった――つまりドキュメンタリー出身のキャメラマン――栃沢正夫を『人間蒸発』(1967)に次いで起用したが、「あの人はおかしい人で、キャメラのファインダーをのぞいていて、どうだい、ときくと、まるで映画のようですね、と答える」と言って腹立たしげに(!)笑ったことだった。というのも、「映画のよさというものを自然現象だと思ってるんだな」というわけである。「僕〔今村昌平監督〕がフレームをつくっているのに、ロケーションで自然がバックになっているものだから、そこにあるものだと思って撮っている。ドキュメンタリーのくせは、抜きがたいものですね……」(「季刊フィルム」1969年2月号)。

 羽仁進と今村昌平の映画の接点とともにその違いを見るような思いがする。1960年代の半ばごろから私は映画評論らしきものを書きはじめたのだが、羽仁進と今村昌平は新しい日本映画の魅惑のふたつの指針だったのである。羽仁進はいまも記録映画作家として、周知のように、アフリカの動物の生態をテレビ・ドキュメンタリーとして撮りつづけ、「生物の歴史・文化論、動物の世界・博物学を渉猟した」著書「大いなる死 ―― 死と生の幸福論」(光文社)なども書いている。今村昌平は日本映画学校を創設して映画監督や技術者を養成するかたわら、監督としても新作『赤い橋の下のぬるい水』の公開を控えて元気いっぱいだ。前作の『カンゾー先生』(1998)の低調ぶりを吹き飛ばしてくれるような快作だといいのだが。



『赤い橋の下のぬるい水』
2001年 日本映画
監督・脚本:今村昌平
出演:役所広司
   清水美砂
公開:11月
配給:日活
©2001日活・今村プロ・バップ・衛星劇場・マル





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