かつて――公開当時に――この映画の若尾文子を見た作家の山川方夫は、「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ、という〔「第二の性」の〕ボーヴォワール女史は、じつは間違っている。生物学的にいっても、いや、あらゆる点からみて、女は女に生まれるのである」と狂ったように書いたものである(「山川方夫全集」第5巻、冬樹社)。
大反響を呼んだ「増村保造レトロスペクティブ」(今年9月からアンコール・ロードショーが東京の中野武蔵野ホールをはじめとしておこなわれるとのこと)に次いで発売された増村保造監督作品のビデオ(大映株式会社)で、あらためてまた、『妻は告白する』(1961)を見て、上記の山川方夫の増村保造映画における若尾文子を讃えた文章を想い起こさせずにはいられなかったのである。
この映画の若尾文子は「女」そのものだ、と山川方夫は書きつのる。「……いじらしい、またグロテスクな執念。その愛のなまなましさ。男にとり、だが、そこに女のあわれさも美しさも、おそろしさも魅力もある。何故なら、その感触の中にこそ男にとっての“女”がいるのだから。」
雨の夕方、びしょ濡れの和服姿の妖しくも美しい若尾文子が愛する男(川口浩)に会いに会社までやってくる――そして愛のために死ぬ――すさまじい、「呼吸のつまるほどなまなましい“女”を実感」させるラストシーンである。
このラストシーンのあまりの鮮烈さに、映画の他の部分――タイトル前のシーン(アバンタイトル)からはじまることとか、裁判劇のプロットとか、古めかしいほど律儀にオーソドックスな回想形式を使った話法とか、物語の発端になる登山のシーンとか、そういったすべて
―― をすっかり忘れ去ってしまうほどだ。
愛に狂った若尾文子が、大勢の視線を浴びると、キャメラが彼女の濡れた髪の毛から泥まみれの草履の足袋の爪先までじろじろと見つめるようにパン・ダウンしていく。恥じらうように彼女は右足をそれとなくひっこめてかくす。そんな小さな動作までがじつに美しく印象的だ。
女だけが美しく愛に狂うことができるのだ。男は「臆病」で「世間の人々にいろいろと言われるのがこわい」から、結局、醜く凡庸に理性や常識に帰る。川口浩は女が彼のために夫を「殺した」ことを知って、感謝するどころか、「たとえぼくのためにでも人を殺すなんて!」と女を責め、女と別れる決心をする。
「奥さんと別れてきた」と言う男に、婚約者だった馬淵晴子が、あたかも増村保造監督のメッセージのように、こう代弁するのだ。「奥さんだけよ、本当に愛したのは。命がけであなたを愛したのよ。あんたのために人を殺したのよ。女の本心はみんなそうよ。女の心には愛があるだけ。愛のためなら、どんな犯罪だってやるわ。そんな女をバカだとか気狂いだとか言うのは、男よ。わたしだって、本当は奥さんのように生きたかった。……なぜ奥さんを抱きとめてあげないの。」
増村保造の男が女の愛を身をもってひきうけ、ヒロインを「抱きとめる」ようになるのは、『「女の小箱」より 夫が見た』(1964)をへて『清作の妻』(1965)まで待たなければならない。『曽根崎心中』(1978)では――女は若尾文子から梶芽衣子になるが――男は女とともに生きるのではなく、死ぬ(殺し合う)のである。山川方夫はすでにその愛の行方を予告するかのように、『妻は告白する』の川口浩が夫殺しの若尾文子について「人を殺すような人間に人を愛することはできない」などと言うのは「平凡な現代の正義派青年にふさわしいチンプなセリフ」で、増村保造監督の本音はむしろ、「人を殺さないような人間に、本当に人を愛することはできない」と言わせたかったのではないかと書いている。「氏にとって、愛はじつは殺人のシノニム(同義語)ではないのか?
真の人間関係は殺しあいの中に成立する。または、殺し殺されあうことによってしか、人間はだれとも真の人間関係はもてない。つまり、そこにしか、真の愛は存在しえない。……僕には、それが増村氏の考えのように思える。(中略)愛することは殺されることであり、愛されることは相手を殺すことだ、という整理がこの映画では可能である。いずれにせよ、愛は殺人行為でしかない」のだ、と。
増村保造監督はどのように考えていたのか。1968年に増村監督にインタビューをしたとき、「増村監督が描く女」についてたずねると、こんなふうに語ってくれたものだった。
かならずしも女を描くというわけじゃないんですがね。人間を描くということですね。女がいちばん人間らしいでしょう。男というのはなんとなく女のために生きていて、馬車馬みたいに重い荷物をひっぱっていて、路上で心臓麻痺かなんかでドタッと倒れるのは男のほうでね(笑)。所詮、非人間的なんです。男はきわめて不自由な生き物だからね。男はすぐ真理だとか名誉だとか言うけれど、所詮は女のために生きているだけ。だから、男を描くとつまらない。えらくヒーローになってみたり、すごく敗残者になってみたり、男らしい男というのは全然つまらないんじゃないですかね。谷崎潤一郎さんの〔小説の〕男をみるとわかりますね。みんな、だらしのない奴とか卑劣な奴とか、とんでもない奴しか出てこない。立派な男というのはあんまり人間的でない。つまり、他人のために生きてるでしょう。男は社会の制約を完全にうけているから、男を通して人間というものは描けないんじゃないですかね。女のほうは自由で人間的ですからね。エロチックと言ってもいいと思いますよ。ヒューマンなものということですね。人間が人間らしく生きるってことがエロチックなんですよ。だから、女っていう生き物のよさみたいなものが、ぼくの考えているエロチシズムですね。女が自由な生き物として、男みたいに影のような存在ではなくて、実体のある存在としての女のよさというものがエロチシズムだとぼくは思うんですよ」(季刊フィルムNO.2/1969年2月号)

『妻は告白する』 ©大映 |
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増村保造監督は、当時、若尾文子主演の『積木の箱』『濡れた二人』(1968)を撮ったあとだった。若尾文子については「一時バイタリティがあったんです」と増村監督は語っていたが、『妻は告白する』はその「バイタリティ」がフルに発揮された若尾文子映画だったと言えるだろう。そして、もちろん、増村映画の原点というか、極点というか、枠とも言うべき作品だろう。
9月の中野武蔵野ホールにおける「増村保造レトロスペクティブ」では、ニュー・プリントで『妻は告白する』が見られるはずである。
※スロウトレイン「増村保造が観たい!」特集へ
※増村保造公式ページへ
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右枠はすべて「増村保造×若尾文子コラボレー
ション2nd、3ndsession+特選2タイトル」より
発売:大映
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