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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに
第3回 映画と観客
第4回 美少女チャン・ツィイーに捧げた愛の詩
第5回 アニメーションの冒険











 ヒッチコックのイギリス時代の傑作『三十九夜』(1935)からアメリカ時代の――24年後につくられた――傑作『北北西に進路を取れ』へのつながり、流れ、ほとんどリメークと言ってもいいくらいの延長と完成、拡大と膨張は、トリュフォーが言うところの「イギリス時代からつねにアメリカ映画をめざしてつくりつづけてきた」ヒッチコックの「天性の資質と才能がアメリカでこそ真に開花しえた」ことのまさに証明であり、典型的な例なのである。『三十九夜』もすばらしいが、『北北西に進路を取れ』のほうがさらにすばらしいというようなこと以上に、これもトリュフォーの表現を借りれば、「アメリカ映画的様式化」がより完璧なのだということになろう。とにかくヒッチコックは、文句なしに、見て楽しい。

 『北北西に進路を取れ』の原題(North by Northwest)は、ロバート・A・ハリス/マイケル・S・ラスキー著「The Films of Alfred Hitchcock」によれば、シェイクスピアの「ハムレット」のなかのせりふ、福田恆存訳では、「ハムレットの狂気は北々西のときにかぎるのだ。南になれば、けっこう物のけじめはつく、鷹と鷲との違いくらいはな」(I am but mad northnorthwest, when the wind is southerly,I know a hawk from a handsaw)にもとづくとのことだが、シナリオライターのアーネスト・レーマンは別の由来を語っている。これも見てのおたのしみということにしておこう。

 トウモロコシ畑で農薬を撒く小型機がケーリー・グラントを襲うシーンは事故死にみせかけて殺すところなのに銃撃しているのはおかしい、あれはミスだよ、とアーネスト・レーマンはこっそり教えてくれもするのだが、たしかに銃声のように聞こえるものの、ヘリコプターが近づくときのものすごい風圧で地面の小石がぶつかり合う雑音のようにも聞こえる。小型双葉機から銃で狙撃するのが見えるわけでもない。このシーンをそっくり模倣したテレンス・ヤング監督の『007/ロシアより愛をこめて(危機一発)』(1963)のほうでは明らかに銃撃のシーンになっていたけれども。『北北西に進路を取れ』のほうでは銃撃のシーンはない。ミスではないと思うのだが……。

 ミスといえば、ラシュモア山をのぞむテラスのカフェで、エヴァ・マリー・セイントがケーリー・グラントをピストルで射つ瞬間、その銃声におどろいて思わず両耳を手でふさぐ少年の姿が目に入るが、よく見ると――よく見ると、である!――少年は銃声がする前に耳をふさぐのがわかる。こういうミスばかりを集めた本も出ているくらいだ。ビデオでは自由に映像を停止できるので、その手の粗探しが容易にできるようになったこともたしかだろう。ビデオ用の安易な現像というか、カラーのタイミング指定がないがしろにされたベタ焼きのゆえに、劇場用のプリントではせっかくつぶした映像がバレてしまい、たとえばジョージ・スティーヴンス監督の西部劇の名作、『シェーン』(1953)の冒頭、緑なすワイオミングの草原が眼下にひろがる広大な美しい風景のかなたに、ふとハイウェイを走る白い自動車が見えるというので(ビデオではよくこんなふうにバレるところがまた面白く楽しいのだが)、これをあたかもハリウッドのプロフェッショナル(撮影はロイヤル・グリッグス)のミスと断じて鬼の首を取ったように得意然と無知をさらけだして書きまくった映画評論家もいるくらいである。といったようなことは別にして、『北北西に進路を取れ』のミスについて言えば、ファンは映画のあまりの面白さに夢中になって、そんなことに気づくことはありえないというのが本当のところだろう。ドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』(1971)についてのインタビューで、犯人の存在理由や行動の動機に関する一切の説明がないことを問われて、こう答えていたことを思い出す。「そんなことを考えたりする余裕はないと思うね。観客は椅子から身をのりだしてスクリーンに見入るだろう」。

 ヒッチコックもまた同じように誇らかに答えることができただろうと思う。



 








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