原稿の締め切りがあわただしく逼迫してきたので、急いで、出版されたばかりの1冊の映画の本を紹介しておきたい。
「フランソワーズ・アルヌール自伝 映画が神話だった時代」(石木まゆみ訳、カタログハウス)はすばらしく頭のいい女優の回想録だ。
1950年代にスターだったフランス女優なので、フランソワ-ズ・アルヌールの名前から『過去をもつ愛情』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1954)、『フレンチ・カンカン』(ジャン・ルノワール監督、1955)、『ヘッドライト』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1955)、『大運河』(ロジェ・ヴァディム監督、1956)といった名作のタイトルを連想するのは、いまや簡単ではないかもしれない。だが、これらの名作は、いま簡単にビデオでは見られるのだ。『フレンチ・カンカン』は劇場でも再公開される。だから、映画を見ずして彼女を単に過去の女優とみなすのはやめよう。
自伝とはいうものの、自分のことよりも他人のことをよりよく見つめて的確に分析し、見事に語っている。たとえばマリリン・モンローについてのこんな記述がある。
マリリン・モンローが、アーサー・ミラーと一緒に来ていた。私は、あれほど美しい顔を見たことがない。青い瞳が、抜けるように白い肌をいっそう引き立てていた。人生に新鮮な驚きを感じているかのような微笑みを浮かべた、少女のような顔。想像を絶するほどの挑発的な肢体には不釣合いな顔だった。私は長い間、どうして彼女が、大きな黒いスパンコールのたくさんついた、体の線が浮き出るようなドレスを身に着けてたりしているのだろうと思っていた。そのドレスは彼女の体を覆っているというよりは、あらわにしていたからだ。彼女は今にもこわれそうで、自信がなさそうで、絶えず何かを探し求めているように見えた。私はその夜、学校でもっとしっかり英語を勉強しておけばよかったと悔やんだ。(P.277-8)
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フランソワーズ・アルヌール自伝 映画が神話だった時代
カタログハウス
3200円(税抜き) |
恋多き女として知られたフランソワーズ・アルヌールだが、映画の世界のプロフェッショナルなモラルとマスコミのスキャンダリズムのあいだに一線を画して、なんとも見事に、毅然としてこう書いている。
・・・・・・演じるということは献身だと思う。愛を与えることであり、愛をかわすことだ。どの映画の撮影も、人生の一部と言ってもいいだろう。そこで私たち俳優は多くの苦しみや不安、幸せや笑いを互いに与え合う。時には取るに足らないことを、多くの場合、説明のつかない、表現しようのない、実にさまざまなことを交換するのだ。何か面
白い撮影秘話があったら聞かせてくれと言われても、私はとまどってしまう。それは、愛する男との愛の一夜について話せと言われるようなものだからだ。人々を楽しませ、笑わせ、泣かせ、あるいは夢を与え、幻想を抱かせる・・・・・・。それは俳優だけが味わうことのできる幸せだし特権なのだ。この不思議な力の秘密を明かす必要はないと私は思う。(P.116)
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1本の映画がつくられるまでの物語――裏話――を描いたフランソワ・トリュフォー監督の映画『アメリカの夜』(1973)とそのシナリオ(「アメリカの夜」、草思社)を想起させる。「映画の仕事は言葉では言いつくせないくらいすばらしいものであり、その証拠に、いったんこの仕事に手を染めた人は誰ももうほかのことをやりたがらない」とフランソワ・トリュフォーは映画の世界の「魅惑」について述べながらも、『アメリカの夜』のシナリオの序文にこんなふうに書いているのだ。
・・・・・・思いがけない出来事が撮影のたびに起こるが、かならずしも愉快な話ばかりではなく、単にわけのわからないことだったり、ときには耐えられないようなむごいことだったりする。実際に起こることのほうが強烈でなまなましすぎて、撮影中のシーンのつまらなさがきわだってしまうことすらある。たとえば、男優と女優がベッドのなかでセックス・シーンを演じるときには、ベッドの両側に2人の助監督がキャメラにうつらないように身を屈めて懸命にシーツをひっぱりっこしながら波立たせ、ベッドのなかの男女がいかにも激しく体を動かして交わっているようにみせる――そんなとき、映画監督としては、つい、こいつは「映画についての映画」のほうが「映画そのもの」よりずっとおもしろくて迫力があるぞ、などと思ってしまうのだ。
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フランソワーズ・アルヌールもまた、女優ながら、ちょっとそんなふうに――映画監督のように――人生を見ているので、その自伝も女優の私生活についての赤裸々な告白録というよりは、距離をおいて――あたかもキャメラをのぞいて――見た映画女優としてのキャリアのメイキングのような感じなのである。