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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに












 映画館ではないが、東京・京橋の近代美術館フィルムセンターの木下恵介監督追悼特集に私は連日通 いながら(連日満席の盛況である)、いま、日本映画から何が失われてしまったのか――それは、言うまでもなく、観客なのだ!――ということをあらためて認識せざるを得なかった。映画観客――それは大衆の名でよばれていた――がいたのであり、映画は観客=大衆のために作られていたのである。それは自明の理のようであって、かならずしもそうではないことは、大高宏雄氏の「どうしてそうなるんだ日本映画、という呟き」に見事に要約されている。

 そもそも映画とは誰に向けられて作られているのか。監督なり脚本家が観客に伝えたい何物かがあるとして、それはいったい観客が欲しているものなのかどうか。このあたりの見極めが、日本映画の場合はものすごく曖昧模糊としている。作家性という言葉がそこでは一人歩きし、映画の作り手たちは錦の御旗のごとく、それにしがみついているように見える。(「日本映画への戦略」、P.96)

 それで思いだされるのは、かつての――戦前から戦後にかけての――大衆娯楽映画の巨匠、マキノ雅弘(正博)監督の口ぐせである。それは、映画はとにかく「おもろなきゃあかんでえ」というのだ。それが映画づくりの信条なのだ。どんな映画でも――主題が何だろうとテーマが何だろうと――「お客が入らんことには」意味がないのだ。だからといって、自主性や作家性がなかったというわけではない。そんなものは表に出てこなかったというだけのことだ。「マキノ節」とよばれたマキノ雅弘監督の映画ならではの魅惑の語り口は、大衆とともに笑い、大衆とともに泣く映画のこころを伝えるものであった。



木下恵介の遺言
横堀幸司・著
朝日新聞社 2000円


 日本映画だけの問題ではなく、例えばフランスのヌーヴェル・ヴァーグの――批評家出身の――映画作家、フランソワ・トリュフォーも1975年にすでにこんなふうに書いている(「わが人生の映画たち」、草思社近刊)。

 わたしが批評家だった1950年代には、映画はいまよりずっといきいきとしていたが、いまの映画ほど「知的」でもなく「個性的」でもなかった。このふたつの形容詞を括弧 でくくったのは、知的で個性的な映画監督が当時はいなかったというわけではないからである。ただ、当時の映画監督は、自分の撮る作品の個性よりも普遍性を重視し、個性などというものは表面 に出ないように押し隠していたのである。知性はキャメラの背後に隠れ、スクリーンに身をのりだして自己主張したりしなかったのである。


 横堀幸司著「木下恵介の遺言」(朝日新聞社)には、晩年の――巨匠として押しも押されもせぬ 地位にあった――木下恵介監督のこんな言葉が紹介されている。

 「ボクは今、いわゆる芸術作品を作ったり、作家として自ら高めようなんて気はさらさらない。〔……〕日本映画が片隅の娯楽になってしまったのも、真面 目な大衆の切実な問題を取り上げなかったからなんだ。作家というよりまともに生きている大衆のひとりとして、1年1年ひと月ひと月が貴重な年齢になってきてるし、言うだけのことを言わなくちゃ、自分自身これから生きていくことが虚しいもんな。映画という形を取るのは、たまたまボクが映画監督だったというに過ぎないさ」

 マキノ雅弘ならではの「マキノ節」のように、木下恵介ならではの「木下リリシズム」とよばれるタッチがあり(黒澤明と同時期にデビューして活躍し、「剛」の黒澤明に対して「柔」の木下恵介とよばれたが、ある種の抒情性がその持ち味であったことはたしかだろう)、それが、ささやかながら、ときには大げさながら、また、ときにはあざとく、ときには親密に、とにかく「真面 目な大衆の切実な問題を取り上げ」ていた木下恵介監督の作品群の魅力であったことを回顧上映の1本1本が――『野菊の如き君なりき』にしろ、『破戒』にしろ、『大曽根家の朝』にしろ、『カルメン故郷に帰る』にしろ――再確認させてくれる。
 







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