
拝啓、山田宏一様
ご無沙汰しております。 京大の加藤幹郎先生のゼミの卒業生、O・Eです。
三百人劇場における「成瀬巳喜男特集」の上映の時にわずかな時間ながらお目通 りできたのは、私にとって誠に幸福の限りでした。
山田さんはいかがお過ごしでしょうか。
山田さんが連載をお始めになりましたHP(スロウトレイン)楽しく拝読させて頂いております。 突然筆を執らせて頂いたのは、他でもありません、そのHPで山田さんの書かれたゴダールの『映画史』に関する記事を読み、また実際『映画史』を観て、どうしても居ても立ってもいられなかったからであります。
あの記事は、誠に感動的でした。 涙が込み上げました、嘘偽りなく……。
以下、僭越ながら、『映画史』を観て暗澹たる気持ちにおちいりながら、それでも何か生み出さなければと思い、雑感を書きます。どうしても何かお伝えしたかったのです。
「この世の終わりだ」「この世の終わりだ」「この世の終わりだ」 「それは映画だった」「それは映画だった」「それは映画、だった」
そして 『リオ・ブラボー』の映像……。
『映画史』=映画死。 ゴダール=死神=闇←→光=リュミエール。 「ゴダール」という、「リュミエール」に対しての溶暗装置。
映画史としての円環的収束。 かくして闇と光は一つになった。 この暗闇はただトリュフォー的アイリス・インによる開眼を待つのみなのだ。
私は常々フランソワ・トリュフォーを敬愛し、彼を(少なくとも私にとっての)映画史において最も重要な人物だと思っているのですが、それは正にこの意味においてなのです。
トリュフォーこそがリュミエールなのだと……。
≪「まだ博物館や図書館はありますか?」「いや、悲歌を創作するためならともかく、我々は過去を忘れ去りたいのです。……各自がその責任で、必要とする科学や芸術を産んでいかなければならないのです」≫(J.L.ボルヘス「疲れた男のユートピア」より)
「どうすりゃいいんだ、フランソワ……」(『ゴダールのリア王』より)
「疲れた男」とはゴダールのことだった。 そして「ユートピア」とは「どこにもない」。
『映画史』を観終えて劇場を出て、一番初めに思ったこと、 「どうしてまだこの世があるのだろう……」。 事実、あの映画の後にこの世が存在するなど、およそ信じられるものではない。
しかし我々は存在している……。
どうして「たかが映画」にこんなに苦しい思いを強いらねばならないのだ!!
この怒りにこそ、私がトリュフォーを愛してやまない根源的な理由があるのです。
私は、トリュフォーの映画を通じて彼への尊敬を覚え、山田さんの書物によって、トリュフォーへの愛を学びました。ひいては映画そのものへの愛を――。
映画監督として私は、ゴダールのようにではなく、トリュフォーのように生きたいのです。
どこまでも不遜に――。
勝手なことばかり書いてしまいましたが、正直な気持ちです。
山田さん、「トリュフォー書簡集」はもう出版できないのでしょうか。事情もよく知らず、勝手な要望かとは思いますが、でも読みたい。HPでの記事を読んでも、その思いは募るばかりです。
最後の方は、本当に勝手なことを言ってしまいました。お気に障りましたら本当に申し訳ありません。
それでは、お体にはくれぐれも気をつけて、頑張って下さい。 どうあれ、いつまでも応援しております。
p.s.――今さらですが、フィルムセンターにおけるハワード・ホークス映画祭にて、ホークスのあまりの素晴らしさを再確認しました。
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