私はトリュフォーとは、金に関することも原因のひとつとなって、完全に……決定的に喧嘩別
れしたのですが、でも私はあるとき彼に、金に関するわれわれの間のそのやりとりを思い出させながら、こう言ってやりました。「君の新作(『アメリカの夜』)を見たよ。でもあの映画には、欠けているカットがひとつある。ぼくは君が撮影期間中にジャクリーン・ビセットの腕をとってパリのレストランに入るのを見たけど、そういうカットをあの映画に入れるべきだよ」と。〔……〕 彼はほかの人については平気でいろんな物語をでっちあげているにもかかわらず、自分とジャクリーン・ビセットのそうした関係を示すカットは、ひとつも撮ろうとしなかったのです。
彼は私の言葉に答えようとしませんでした。そのあとはどんな接触もありません。でも『アメリカの夜』がある年のアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞したのは、偶然からじゃありません。なぜなら、あの映画はまさにアメリカ的な映画だからです。〔……〕 アメリカの連中がこの映画に賞を与えたのは、この映画が、映画というものがどういうものかを──明らかにするように見せかけながら──見事におおい隠したからです。人々には理解できないような魔術的トリックをつかい、きわめて快いと同時に不快でもある世界をおびきよせたからなのです……人々にむしろ、自分はそうした世界には属していないという安心感を与え、それと同時に、映画を見るたびにきちんと5ドル払うことの喜びといったものを感じさせたからなのです。
といった調子でまだまだつづくのだが、トリュフォーは公けには反論せず、あたかも裏切り者の汚名を着せられたままかつての盟友の罵倒を背に受けながら、1984年10月21日の日曜日にこの世を去った。『日曜日が待ち遠しい!』(1983)が遺作になった。

ゴダールとトリュフォー
1966年、『華氏451』撮影中のフランソワ・トリュフォーをロンドンのパインウッド撮影所に訪ねたジャン=リュック・ゴダール。フランソワ・トリュフォー著「ある映画の物語」(山田宏一訳、草思社)より |
そして、死後、1988年に出版された書簡集で、初めて、私たちは、ゴダールの罵倒に答えたトリュフォーの個人的な反論を知った。ゴダールをののしり返したすさまじい──ゴダールに勝るとも劣らぬ
激烈さで意地汚く罵倒した──反撃の手紙である。その手紙をゴダールは破り捨てたりせずに大事に持っていたのである。そして、トリュフォーの書簡集には心をこめた序文を書き、こうしめくくっている。
フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?
その後のゴダール作品にはかならずと言っていいくらいフランソワ・トリュフォーへの思いをこめた言及があり、それが『映画史』では頂点に達しているかの観がある。まさか、かつての友に先立たれるとは思いもよらずに意地汚くののしりつづけたやましさ、いじましさ、くやしさ、慙愧に堪えきれぬ
かのように。
最後は自分を育成してくれたすべての映画──映画のみならず、すべての芸術、宗教、哲学、政治、人間──に感謝しつつ、創造という「夢の楽園」を通
り抜けた証しとして「一輪の花」(おそらく「栄光」という名の)を授かった最も幸福な男が自分だった、という人間的な、あまりに人間的な独白(読まれる文章はホルヘ・ルイス・ボルヘスの「夢の本」からの引用)で終わる。
『映画史』は、こうして、ゴダールのセンチメンタル・ジャーニー、せつなく悲しい「伝説」になるだろう。
それにしても、これは何なのだ?
映像も音声も、なぜこうも──「たかが映画じゃないか!」というのに──ただひたすら苦痛をのみ強いてくるのか?
いや、これは「映画」なのだろうか?──などと愚問を発したら神の怒りにふれるのだろうか。