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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』











 1990年代に入ってつくられたアラン・ドロン主演の『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)や『ゴダールの決別 』や、1980年代から90年代にかけて10年から15年もの歳月をかけてライフワークのように世界のすべての映画的記憶を集大成した『映画史』も、要するに、ゴダールの「最初の(そしておそらく最後の)抽象的ニュース映画」あるいはまたゴダールの「新しい」ニュース映画だったのだろうか。

 ゴダールは「ロマンティックな人間」であり、「<プラウダ>は革命に対する、真実に対する、ノスタルジアの作品である」とメカスはまた書いているのだが、ゴダールの『映画史』となるとノスタルジアもここにきわまれりといった印象をうける。それも、映画に対する──ゴダールが自ら否定し、破壊し、廃棄したはずの古典的な「映画」に対する──ノスタルジアである。しかも、その極限に至った前衛的手法を変えるわけにもいかず、全知全能のコンピュータの声となり神の声と化して「天上」に昇りつめた以上──天使なら地に堕ちることもできようが──もはや「地上」には戻りたくても戻れない「悲惨と栄光」が、『映画史』のモチーフ、と言うよりもテーマになっているかのようでもある。その絶望的なまでに限りないノスタルジアのきわみは、「5月革命」をきっかけに袂を分かったヌーヴェル・ヴァーグの盟友、フランソワ・トリュフォーへの──あたかも赦しを乞うかのような──祈りにも似た哀悼になるのだが、その前に、ゴダールがトリュフォーとヌーヴェル・ヴァーグを、映画同人誌「カイエ・デュ・シネマ」の仲間たちを(もちろん彼自身もふくめて!)、いかに意地汚く罵倒しつづけてきたかを、回想形式(フラッシュバック)で引用してみよう。引用はすべて「ゴダール/映画史T」「ゴダール/映画史U」(奥村昭夫訳、筑摩書房)による。


シネマテークの守衛を演じるゴダール本人(『映画史』第6章=3B「新たな波」より)

 われわれははじめのうちは、自分の映画を、もっぱら映画史との関係のなかでつくっていました──ヌーヴェル・ヴァーグというのはきわめて幅の狭いものなのです──。しかもそれらは結局は、映画史とはなんの関係もなく、われわれはもっぱら、自分の個人史からきたものにほかならない。個人的欲望という主観を映画史のなかに位 置づけようとしていただけだったのです。とりわけリヴェットとかトリュフォーといった連中は、そうしたやり方で映画をつくりはじめました。かれらの映画は、ある種のフランス映画に対する反撥としてつくられました。そして今では……そう、それぞれが自分の道を歩んだのです。それにしても、〔クロード・〕シャブロールはなぜ〔ジュリアン・〕デュヴィヴィエになったのでしょう? 彼はたちの悪い男じゃないはずなのです……

(1978年のインタビューから) トリュフォーは<カイエ>の時代にデュヴィヴィエを攻撃しました。でも今の彼は、デュヴィヴィエでさえありません。私に言わせれば、彼には腕(メチエ)がないし……あれは王位 簒奪者なのです。おまけにアメリカ映画〔『未知との遭遇』〕に俳優として出る始末です。彼はアカデミー・フランセーズに入れるものならきっと入るでしょう。〔……〕  シャブロールはごろつきと同じように誠実です。ところがトリュフォーは、誠実な人間のふりをしているごろつきなのです。最もたちが悪いわけです。1度も手を洗ったことのない奴が、他人に《手はいつも清潔にしておかなければならない》と説教しているようなものです。









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