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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』





 神の声を吹き替えて天上に向かうゴダールとともに、その前衛精神、実験精神によって地下に向かうゴダールがいたのである。同じ日記のなかで、メカスは、『ウィークエンド』(1967)についても、「ゴダールが1作ごとに、しだいにニュー・アメリカン・シネマすなわちアンダーグラウンド映画の手法と美学に近づいているという私の確信をいよいよ確実にした」と書いている。そして、「5月革命」をへてジガ・ヴェルトフ集団による『プラウダ』(1969)については、「ゴダールはやっと商業主義と縁を切り、アンダーグラウンドに加わった」と手放しで絶賛する。


『ワン・プラス・ワン』ラスト・シーンのアンヌ・ヴィアゼムスキーに「映画史」というタイトルが重なる(『映画史』第6章=3B「新たな波」より)

 <プラウダ>はゴダール作品のうちで最も明確な作品である。その反面 これは彼の作品のうちで最も謎めいた作品である。この中で解説者が、映像と音の偶然のつながりからいかに真実があらわれるかを語っている個所がある。この映画の謎のひとつは、2回見ても私にはサウンドトラックで語られていることの10分の1も理解できなかったことである。たまにひとつかふたつ、言葉や意味がわかるだけだ。偶然と計算の割合はどのくらいなのだろうか? 〔……〕 これは明らかに最初の(そしておそらく最後の)抽象的で普遍的なニュース映画であり、あらゆるニュース映画に終止符を打つものである。<プラウダ>はニュース映画におけるゴダールの<勝手にしやがれ>である。これは何かの始まりでなく古いものの最後である。ゴダールの“新しい”ニュース映画はどういうものになるだろう。
(「メカスの映画日記」、前出)


 ゴダールの映画の「わからなさ」を──それも中途半端ではない「わからなさ」を──メカスのように「10分の1も理解できなかった」と堂々と言い切ってみたいものである。それは実験映画であり個人的な冒険なのだから、「わかった」とか「わからない」とか大衆が、民衆が、観客が、斟酌するほうが傲慢なのかもしれない。「ゴダールは本気で民衆のためにニュース映画を作っているのだろうか?」とメカスも書いている。








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