1968年の「5月革命」以後、ゴダールはそれまでの、『勝手にしやがれ』(1959)以来の、彼自身の映画的キャリアを自ら葬り去るまでに徹底的に、過激に、「変貌」し、劇場用商業映画を一時は完全に否定し、ヌーヴェル・ヴァーグのかつての仲間たち、とくに盟友フランソワ・トリュフォーと袂を分かち、ヌーヴェル・ヴァーグが擁護顕揚した「作家主義」を廃棄し、個人としての映画作家ジャン=リュック・ゴダール
Jean-Luc Godard から集団的創造の一要素、あるいはむしろ、最も純粋に抽象化された「創造」そのものとしてのJLGになるのである。
1993年の『ゴダールの決別』には、神が登場するのだが、神の声を吹き替えたのは録音マイクをのどぼとけ──アダムのりんご──というか、声帯そのものに直接あててしゃべるゴダール自身だった。ゴダールは神になったのであり(それも「映画」の神というよりは、ある種の「知」の神に)、そして果てしない饒舌は神の声になったのである。

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アルファヴィル
ALPHAVILLE
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:エディ・コンスタンチーヌ
アンナ・カリーナ
1965年フランス映画
1時間38分
カルチュア・パブリッシャーズ
¥3,800/DVD
6月21日(水)発売 |
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だが、同じ方法によるゴダールの神の声はすでに1964年の『アルファヴィル』でも拝聴することができた。未来都市──といっても、米ソ冷戦から30年後、1984年という設定なので、すでにいまとなっては未来都市ではないものの──アルファヴィルを支配するコンピュータ、アルファ60の声がそうだった。「『アルファヴィル』こそ、90年代ゴダールを解読する鍵なのだ」と題する文章のなかで(『アルファヴィル』プログラム、銀座テアトル西友)、中条省平氏はまた、「全知全能のコンピュータの主題は、それを突き詰めていけば、かならず世界の創造者である神の問題に突きあたるだろう(たとえば『2001年宇宙の旅』のように)。したがって、『アルファヴィル』の全知全能のコンピュータは、『ゴダールの決別
』に登場する神のテーマの先駆となるものだった」と見事に解明してくれる。
それで思い出されるのは、興味深いことに、アメリカのアンダーグラウンドの映画作家、ジョナス・メカスが、『アルファヴィル』のなかにアメリカン・アヴァンギャルド(すなわちアンダーグラウンド映画)と同質の精神を見出して共感し、称揚していたことである。
ゴダールのイメージは、スクリーンの光の中に引き出されたわれわれの潜在意識である。“アルファヴィル”はすでにわれわれ多数の魂の中に存在している。〔……〕
ゴダールは言う。くたばりやがれ。不可能なことなどひとつもない。そうでなくとも、われわれは可能か不可能かなどということに気を使わない。われわれには言うべきことがあるのだから、それを言おう。言っているうちに、言う新しい方法、新しい形式、新しい詩の形がわかってこよう。
ゴダールの映画は理性(アイデア)の映画である。映画はいままであまりにも情感だけに依存してきた。ゴダールはイメージと理性(アイデア)にかかわっている。彼は映画と観念に固執する。理性(アイデア)の映画はまだ存在しない。ゴダールはこの種の映画の前衛である。彼は前進しながら、多くのものを自分で発明しなければならない。前を行く人はほとんどいない。ゴダールの映画は新しい映画の一部分である。彼は不可能なものはないと言っている。彼は映画言語を拡大している。彼は生きている。
(「メカスの映画日記」、飯村昭子訳、フィルムアート社)