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ドキュメンタリーは怖い。カメラが入ることで、
現実を変えてしまう感じがする
―ストリッパーというものに興味を抱かれたのはなぜでしょう?
ああ、地元にストリップ小屋があったんです。自分の中学校のときの校区にあるので存在は知っていたんですが、女だから行ったことはないし(笑)。でもなぜか惹かれるものがあって『萌の朱雀』がカンヌで受賞した頃に入ってみたんですよ。シナリオ・ハンティングという感じで。で、そこでストリッパーのお姉さんに出会って。いろんなタイプの人がいるんですけど、私が出会った人というのが舞台に誇りを持っていて、なんだがすごく華やいで見えたんです。肉体をさらけ出しながら、すごく自信があって意志みたいものが見えて。
それでその人にどんどんのめりこんで取材していって、『火垂(ほたる)』のあやこ像を作っていったんですね。私自身も映画を作るというのは自分をさらけ出す作業なわけで、なにかすごく近いものを感じました。
―そういえば、僕は河瀬さんの『につつまれて』がすごく好きなんですけど、あの作品の主人公、つまり河瀬監督自身と『火垂(ほたる)』のあやこは地続きな気がしました。言葉をポツポツ置いていく話し方とか、よく似ているし。これは意識されてのものなんでしょうか?
意識せずとも出てしまうみたい(笑)。あやこ役の中村優子を演出するときの持っていきようもそうだし、もう中村優子をオーディションで選んだ時点で、私の中にある何かを彼女に投影できると思ったんですね。だから、あやこは私に似ていると言われることが多いし、実際の表面的な性格は私と彼女では全然違うんですけど、あやこ像をふたりで作り上げていったという感じですね。
―中村優子さんを選ばれた一番の理由は?
すごく行間を表現できる人だったというのがあって。たとえばオーディションをやるんですけど、他の人が左を見ているときに右を向くとか、彼女はちょっと変わったことをやるんですよ。で、理由を聞くと太陽の光がまぶしかったからとか風が強かったからみたいなことを言うんですね。普通、オーディションというのはビルの中でやるから、要素は人物しかないわけじゃないですか。なのに、そういう見えない要素をちゃんと入れられる。
―観ていて中村さんがすごくいいなと思ったのは、演技がいわゆる“演技”ではないじゃないですか。大司のふとした言葉にあやこが嬉しさを覚えても、あえて「まぶしい」とか関係ないリアクションをしたり。だからこそ逆に気持ちが伝わってくると思いました。その場面だけではないんですが、不思議だったのはどの場面も会話がすごく自然ですよね。たとえばあやこが近所に買い物に行って店のおばさんと話すところとか。あれはどういう風に撮っているんですか?リハーサルとかは……。
リハはないです。即興で。俳優には、撮影の間あの近所に住みこんでもらってたんで、あそこしか買い物行くところがないんです。店のおばちゃんとは、だからもうすでに友達になっていて。なのでシナリオにはないんだけど、撮影中、ちょっとここらでワンクッション置きたいというときに、あやこに買い物に行ってもらい、そこにカメラが入っていくという・・・。
―ああ、じゃあ実際に買い物してるんだ。
そうです、そうです。だから映画に出てくるカレーにしても、実際に中村優子の手作りなんです。あの店で材料を買って、で、その日の夜に自分で作ったものを出す。
―なるほど。いや、例えば少女時代のあやこを演じる子役の演技とかにしてもすごくリアルですよね。そういうリアルな空気感は、河瀬さんの作品の特徴が一番出ているところだと思います。どういう方法論があるのでしょう?
例えば悲しみというものを描くときに、映画は悲しみだけを切り取るわけです。そこにいく過程で、まあ極端に言ってしまえば、お母ちゃんをなくしたことで悲しいという場面であれば、お母ちゃんを本当に殺さなければいけない。でもそうはいかないので、(子役の)彼女に「今日あんた家帰れへんねんで」と言ったら(笑)、それで悲しんで走ってくれたりするというふうに、違う要素なんだけど、本当の悲しみを与えるんですよ。
―ああ、じゃあ最初の場面で女の子が泣いてるのは本当に悲しくて泣いてるんだ。
そうです。本当に連れ去って駅でひとりにして。もちろんスタッフはいるんだけど、彼女にとっては私以外知らない人ばかりだから。で、本当にああいう気分にさせて「お母ちゃん……」と言わせる。もちろん本物のお母さんはいるわけだけど。
―つまり、全部そういう方法で撮ってるわけですね。以前、NHKの対談番組に河瀬さんが出演なさってるのを観たんですが、そのときに印象に残ってるのが、「自分にとってリアルなものでないと撮る価値がない」という言葉なんです。だからフィクションである劇映画を撮るときに、どういう姿勢で臨まれるのかがとても興味がありました。ドキュメンタリーと劇映画では分けて考えていますか?
うーん、やっぱり少し違うんでしょうね。ドキュメンタリーはやはり現実をつきつけられる。カメラのこちら側にいる私も、向こう側にいる人間と対等の立場としてインタビューをしますよね。でも俳優さんの場合はちょっと外にまわった演出というか、まあ虚構ですよね。虚構を本物として作り上げる。
ドキュメンタリーというか、事実に対してカメラを向けるというのはすごく怖いですよね。私のカメラが入ることで事実が変わっていくから。出会えなかった人にも出会ってしまうし、逆に出会えたかもしれない人に出会えなかったり。『につつまれて』なんかは顕著な例で、いい方向だと思うんですけど、カメラが入ったことで私は父に会えた。母は父に再会した。なんか現実を変えちゃったという感じがする。
自分が生きてる日常と虚構の世界を本当に切り離して演出できれば楽なのかもしれないけど、そうはできない。どうしても日常を虚構の世界に投影して作ってしまうので、すごく苦しいときがあるんです。『火垂(ほたる)』にしても地元での撮影だし、風景も自分のもの、そのなかで人物を動かしていかなければいけないわけで、すごくしんどかったですよ。でも、なんかあんまり嘘がないというか……。
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