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現実が厳しいがゆえにせり上がってくる
祈りの様なものを映画に盛り込みたい

―『月光の囁き』では拓也と沙月の間にあった距離がなくなることが描かれ、『どこまでもいこう』では光一と明が互いの間にある距離をはかりそこねる姿を描かれましたが、この「距離感」という2作品に通 底するテーマは最初から意識されました?

 はっきりと自覚していたわけではないのですが、あとから考えてみると結局そこを巡っていたんだなと感じますね。人間関係は対象的に結びつくのではなく、常に非対象的にしか結べないと思うんです。
『月光の囁き』の拓也と沙月でいうと、拓也は対象的な関係はあり得ない事はわかっている。一方、沙月は対等な関係は存在すると思っているんだけど、そんなものはないと自覚している奴と出会う事によって沙月は自分が想定した距離感が乱れてくる。そのなかである瞬間、奇跡的な均衡が出来てしまうわけです。距離間がなくなるというのは、あり得ないはずの均衡がふいに成立することです。そしてその均衡を受け入れた瞬間に逆に矛盾のように何かが成立してしまう事を描きました。

『どこまでもいこう』の場合はその前の段階。子供時代というのはちょっとした理由で友達になれたんです。ところが10歳くらいから本来の資質がせりあがってくる。そうすると明と光一みたいに、本当は別 々の資質をもった奴とも一緒に遊べていたのが、ふと気がつくと距離が遠くなっている。自分と似た資質同士の者たちとの別 の関係性がいきなり構築されるんですよ。創造的な人間と破壊的な人間が子供時代は平然と共存して無二の親友でいられたのが、10歳の、資質が健全化していく頃でばらけてしまう。そのばらけていく瞬間に世界との距離を掴めなくなっていくことを描いたのが『どこまでもいこう』です。

―『月光の囁き』はある種のファンタジーのような感覚があります。その辺りは演出上で意識されましたか?

『月光の囁き』は確かにファンタジーと言い得ると思うんですね。でもそれは単なるファンタジーではなくて“すごく痛いファンタジー”なんです。あまいファンタジーではないんです。私は「現実はこんなに厳しいんだぜ」と露悪的にそれを出してOKだとは全然思っていません。現実が厳しいがゆえにせり上がってくる祈りの様なものを映画に盛り込みたいと思っている。

 ただ、おそらく、その現実の厳しさを分かっていながら、しかし、そこに祈りがあるということが『月光の囁き』のファンタジーを支えているんだと思っているんです。それが通 常のファンタジーではないのは現実にある非情さとか、厳しさとか、残酷さというものに、まるでなにもなかったかのように蓋をして、それによって、ある楽天的なファンタジーを描くということはやらないということなんです。

 それは大和屋竺から学んだことで、現実は厳しい、それは認めざるをえない、しかしそこに一瞬の至福があるんだということをふまえたファンタジーを立ち上げていこうというのが『月光の囁き』の世界であり、私は基本的には『どこまでもいこう』も同じ世界観で撮っているつもりです。




人間は本質的に多面 的な存在
そういう目で見つめれば魅力的に見えてくる

―二つの作品における共通点と決定的な違いというものはありますか?

 やっぱり単純にスタイルの問題だと思います。『月光の囁き』はある種スタンダードに撮っていて、『どこまでもいこう』はわかる人にしかわからないけど、相当に実験的なスタイルで撮っているのが違いですね。それに時間の流れ方が全然違う。『どこまでもいこう』はかつてのアメリカB級映画のような流れで撮っていて、『月光の囁き』はある種の文芸映画的な流れ、つまりもっと緩やかで長い流れで撮っています。

 共通項は物事を一面的な見方で見ないということです。人物なり出来事なりをいろんな角度から多面 的にみるということをやろうと思ったんです。『月光の囁き』での拓也というのは単に変態ではなくて、ごく普通 の少年であり、マルケンにとってはいい友達であり、お母さんにとってはそこそこいい子だったり、勉強もそこそこ出来て…。だけどある一面 において変態である。マゾヒストということだけで人間を掴んだつもりには決してならないように、様々な多面 性を残していくようにしたつもりです。

 つまるところ彼はある一面 においてはどこにでもいそうな子であり、別の一面においてだけマゾヒストである。それゆえに沙月は混乱するんです。前面 的にマゾヒストだったら混乱しないわけですよ。「もういらない」とそこで終われるわけで、終われないのは人間が本質的に多面 的であるからです。私はそういう意味で人間を多面的に見つめることを念頭におきました。多面 的に見つめればその人は必ず魅力的に見えてくる。そういう人物の魅力をすくい上げたいんです。

 同じ見方を子供にもしたんです。子供はこうであるということはない。子供というのは多様だし、一人の子供をとってみても非常に多面 的です。良い子悪い子ではなくて、良い子であったり悪い子であったりする。残酷な面 もあれば、すごく優しい面もある。それは明も光一もそうでしょう。光一は妹想いのいい奴だけど、鶏を焼いて食ったりする(笑)。

 作者の都合なりイメージなりで子供を自分のもっているナルシスティックな何かを描くためのダシにするんじゃなくて、ただ子供を丸ごと捉えて映画に写 し取るんです。そうすると絶対に魅力的に見えるはずです。子供たちが魅力的にみえれば、私の考えは成功です。基本的にその方法論は同じなんです。

―次回作についてお聞かせ下さい。成熟したものではない人達を主人公にして撮った二本の次に撮りたいものの構想などあれば。

 次がですね、すごく難しくて同時に複数の企画を動かすことになりそうなんです。どれが実現するかわからないので「次はこれです」と言いきれないんですよ。ただ、その中の一本には10代の男の子女の子の話が一本入ってきます。

 私は自分で自分を制御できていない人にものすごく惹かれるんです。『月光の囁き』の拓也と沙月も、『どこまでもいこう』の明も、あるいは私が以前、監督したオリジナルビデオの『露出狂の女』のヒロインも、自分で自分を制御できていない人のお話なんです。どうもそういう人にとりつかれているので、またそういう人を描くような気はしています。

―ご自身は制御できていますか(笑)?


 私はすっかり自分を制御できていると思っていたんですが、脚本家の高橋洋が言うには全然そうではないらしい(笑)。

―年齢的なことでいうと、若い人達を撮っていきたいというのはあるのですか?

 いや、企画の中には老人しかでてこない企画もあるんですが、篠崎誠がそういう企画をやろうとしているみたいで。まず彼が撮るべきかなという気がしています。別 に子供にこだわっている訳ではないですけれど、今は子供への興味が深くなっていますね。



『どこまでもいこう』
小学5年生の悪ガキコンビ、アキラと光一。教師たちの策略によりクラスが別々になっても深い絆で結ばれていた二人だが、日がたつにつれ、その関係が微妙な変化を見せ始める。光一は不良転校生とつきあいだし、アキラはプラモデル作りの名人・野村との出会いによって、二人はそれぞれの新たな世界を知ることになるが…。

 監督:塩田明彦
 出演:鈴木雄作 水野真吾
 1999年 日本 75分
 配給:ユーロスペース・映画美学校


 ユーロスペース2にて3月17日までアンコール上映中


www1.raidway.ne.jp/~athene/dokoiko/index.html


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