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−−この道に進むきっかけは何だったんですか?
山田宏一さんのアシスタントになったんです。
−−そのきっかけは?
山田さんが『キネ旬』の“シネ・ブラボー”っていう連載で、『リオ・ブラボー』」('59)とかハワード・ホークスの映画でジョン・ウェインがしているバックルについて書いてたんです。「Dの下に2本の波線が入ったデザインのバックルをいつもしてるんだけど、あれはなんだろう」って。ぼくはたまたまその理由を知ってたんで、「こうじゃないですか」って手紙を書いたんですよ。それで『キネ旬』にぼくの名前が載って。そういえば、山田さんの『映画この心のときめき』(白川書院)にも“横須賀市の宇田川さん”って名前で出てくるんですよ。それで山田さんには一応名前はおぼえてもらって。もちろんそのときは手紙だけで面識はないわけですけど…。
それで、その年の暮れに山田さんが編集していた『ユニフランス・フィルム』っていう雑誌のアシスタントを募集していたから受けに行ったんです。正月に面接試験があってね。『キネ旬』編集部近くの飯倉の交差点にあった喫茶店で、当時、『キネ旬』編集長だった白井佳夫さん(映画評論家)も一緒に、試験官みたいな感じでひかえてらして。
−−どんな面接でした?
映画の話をちょっとしただけですけどね。じつはその前に目白にあった山田さんの事務所を訪ねていたんですよ。どうも履歴書の送り先を間違えて書いたような気がしてね。心配になって「ちゃんと届いてますか?」って。
−−それはアポもとらず突然?
ええ。あ、そうか、突然行ったのか。失礼なことをしたなぁ(笑)。それで有線放送の会社に遅刻しちゃったから上司におこられて、もうこれは採用決まってないけど辞表出しちゃおうって。『ユニフランス・フィルム』の採用が決まる前に会社に辞表を出しちゃったんですよね。
−−そこでアシスタントとして働きはじめたんですね?
働くといっても不定期刊行物だから、そんなに仕事はないんですよ。薄い雑誌だし。ときどき翻訳の人のところに原稿を取りに行ったりだとか、ゲラが出たら校正して印刷所に返しに行くとかね。まあ、簡単な仕事ですよ。仕事の量が少ないってことではぼくにぴったりだったけど、収入もあんまりなかったですね。それで山田さんがほかの仕事を紹介してくれるようになって…。『キネ旬』の編集者を紹介してくれて、それで書くようになったという感じですね。
−−でもなぜ山田先生に手紙を書く気になったんですか? ほかの評論家もたくさんいらっしゃるのに。
それは単に、ぼくが読んだときに“シネ・ブラボー”でジョン・ウェインをやってたから。
−−それだけですか?
バックルについてたまたま知ってたから、書いただけ。
−−じゃあ、それが山田先生じゃなかったらほかの人だったかもしれない?
じつは山田さんの前には、中学2年だったからずっと前だけど、映画評論家の児玉数夫さんに手紙を書いたことがあるんですよ。児玉さんが『映画の友』に、ジョン・フォード一家が出演している作品の一覧表をつくったことがあって…。そのころはフォードに関するそういう資料なんて何もないころだったから、すごく貴重な研究でしたね。それで「これとこれが抜けてる」っていうことを書いたんです。たまたま、そのころリバイバル公開でフォードの映画をよく見ていたから、記憶が新しかったんですよ。だからその表を再録した児玉さんの『西部劇紳士録』(明治書院)という本にもぼくの名前が載ってるんです。
−−山田先生が書かれている評論や映画の見方が特別、好きだったというわけではないんですか?
いや、それは好きでしたよ。西部劇のことをよく書いてらしたし。『シネ・ブラボー』は愛読してました。でも、山田さんに会う前には『映画について私が知っている二、三の事柄』(三一書房)も読んでなかったんですよ、ひどい話ですが…。実際に会ってからサイン入りでもらっちゃった(笑)。
評論家の人に手紙を書いて、その弟子になるという発想はなかったんですよ。そういうきちんとした計画的なことは、ぼくにはできない(笑)。たまたま『ユニフランス・フィルム』を手つだっていたからいろいろ紹介してもらって、山田さんの親切にぼくがすっかりあまえちゃったって感じなんです。 |
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宇田川さんを探せ! |
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『映画この心のときめき』
(白川書院) |
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2002年5/28号 NO.20
(角川書店) |
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2002年6月号 NO.624
(資生堂) |
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2002年6月号
(集英社) |
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2002年6月号
NO.37
(角川書店) |
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2002年5月号
NO.227
(本の雑誌社) |
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