2008年04月08日

伝説の映画監督・高林陽一と大林宣彦が日本映画界を語る!PART2

前回より


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やはり日本映画的。そしてもっと極端に言えば、高林陽一的な映画を作りたい


大林――最近では『映画は誰が見ても分かるもの、分かりきったものでないと成立しない』という考えが当然のようになってきた。でも、そんなことはない。自分が分かればいいんです。なのに、『俺が分かったようには隣の人は観ていないぞ』って不安になると、それは分かりにくい映画ということになってしまう。自分なりに分かっていればいいんですよ。そういう習慣を作るってことが芸術文化の大事な役割なんです。


高林――大林君は、いわゆるフィーチャー映画を40本も撮った日本映画界の巨匠。私はいつまでも自分の映画にこだわり続けた。そして自主制作、個人映画という言葉に魅力を感じたといいますか、いわゆる商業映画にあまり魅力を感じないんです。観る前から分かり切っているものを、また見せられるという感じが強くて。

こうやって僕が皆さんと対面していても、一人一人の内面は見えてこない。あなた方に、私の中にはこんな世界がありますよってことを見せられるのは、やはり活字や絵画、映画であると思う。その中でも映画は 小説や絵画と違って非常にいろんな要素を含んでいる。
昔、8mmでやっていたときは一人で歩きながら撮れた。しかし今の映画は、そういう意味では一人では撮れない。何人もの力を借りて撮らなければならない。そして多くの才能がせめぎあって、一つの世界を作りあげていく。他の媒体では味わえない、一つのものを作っていく連帯感、喜びみたいなものが好きなんです。


大林――『100人が見れば100人とも分かるもの。コレが分かるということ』という、こういった考え方が怖い。
今日の映画(「涯てへの旅」)は、皆さんお分かりになったでしょう。それは自分なりに分かったということ。それでいいんです。なのに、俺が分かったようには隣の人は観ていないぞって不安になると、それは分かりにくい映画ってことになる。
それで分かる分からないってことになるんだったら、女房のことが分かってる亭主が世の中どれだけいるか。お互い自分なりに分かっていればいいんですよ。
そういう習慣を作るってことが芸術文化の大事な役割なんです。
そこで高林陽一が高林陽一的映画を作る。それを完璧に理解することは出来ないが、誤解することは出来る。
恋愛は誤解なんです。相手を相手以上に美しいように誤解する。そして惚れ込んだ相手にふさわしい人間に自分もなろうとする。
映画は恋愛に似ています。『映画が人生を変える』ということは、映画に惚れ込み、その映画にふさわしい自分になろうとして、その人の生き方までも変えさせてしまうこと。これが映画のすばらしいところです。


高林――もう一つ言えば、40~50年代にハリウッドで盛んに作られた、ミュージカル映画というものがあるんだけど、そういう映画を観ると、これは絶対に日本人には作れないなあと思う。
僕はアメリカ映画的、フランス映画的という、~的という言葉が非常に辛くて。
自分の作風に、何が一番相応しいかというとやはり日本映画的。そしてもっと極端に言えば、高林陽一的な映画を作りたいと思います。
アメリカのミュージカル映画を真似て作ろうとしても日本人では無理です。才能もないし、ブロードウェイなどのアメリカ文化とは流れている血が基本的に違う。自分にはどんな表現が一番ふさわしいか考えると、やはり自分的な映画が作りたい。

≫続く


「涯てへの旅」('07)

takahayasi09.jpg

<キャスト・スタッフ>
企画・脚本・演出:高林陽一 撮影・編集:としおか たかお 助監督・録音:秋吉弘文 
出演:高城ツヨシ 遠藤久仁子 白石美樹 木元としひろ
<ストーリー>
「僕は確かにこの風景を知っている。この浜を歩き、これと同じ情景を見たことがある・・・」唯一の肉親を捜し、父の生まれたであろう海辺の町へとやってきた男。夢のような、幻のような記憶と現実の交錯する旅の中で、男は生きる術を知る 。


<関連サイト>
「涯てへの旅(はてへのたび)」
http://takabayashiyouichi.web.fc2.com/


ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/


投稿者 tkurio : 11:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

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