![]() ![]() 日本映画のターニングポイントを1989年に置く見方があるのは、まあいいだろう。北野武の『その男、凶暴につき』、阪本順治の『どついたるねん』、塚本晋也の『鉄男 TETSUO』と、その後の日本映画を代表する監督たちのデビュー作が一斉に封切られ、新しい胎動を実感させた年である。前年ににっかつ(日活)ロマン・ポルノが17年間の歴史に幕を下ろし、プログラム・ピクチュアの時代が終わり、日本映画の新たな局面がスタートした年である。 人によっては黒沢清が『スウィートホーム』でメジャーに挫折した年とするかもしれないし、押井守が 『機動警察パトレイバー』を監督した年であるかもしれない。あるいは瀬々敬久が『課外授業 暴行』でデビューし、いわゆるピンク四天王の活躍が始まった年とする人がいるかもしれない。はたまた大森一樹の『ゴジラVSビオランテ』によってゴジラ復活が軌道に乗った年……。もういいだろう、所詮、映画にまつわるレッテル貼りなんざ、こんなものです。 |
| しかし、ここにたったひとつの真実がある。勝新太郎の最後の監督作『座頭市』が公開された年である。我々はもう、この映画作家の新作を決して観ることはできない。勝新太郎が逝って今年で7年。その間、日本映画の構図は大きく変わった。とうに命脈が尽きていたとはいえ、細々と続いてきた撮影所システムの時代は完全に終わりを遂げた。撮影所の時代に引導を渡したはずの旧角川映画もすでになく、個々の映画は文字どおり、線や流れでなく、点でしか存在しえない。もはや何でもあり、の曠野(あらの)である。しかし、「何でもあり」ということは、誰もがひとしなみに映画をつくる権利を与えられたことであり、歓迎すべき傾向であるように思える。が、しかし。それは違う。絶対に違う。 「何でもあり」ということは、誰もが殺到してメガフォンをとり、商品以前の映画とも呼べぬ代物を垂れ流すことではないし、観客不在のまま内輪褒めを推進させ、まるでここが日本映画の中心であるかのようなフリをすることではないはずだ(そもそも、もはや中心など存在しない)。こんな出鱈目な時代だからこそ、今になって勝新太郎の不在がボディブロウのように効いてくる。そう、勝新不在の日本映画なんて、もういらないよ。 勝新映画祭やDVDのリリースによって、往時を知らない若い世代に支持されていると聞いてうれしく思う反面、未だ勝新の映画世界の沃野(よくや)が解明されたかどうか、いささか心もとない。ワン・アンド・オンリーの生き方を面白く取り上げてリスペクトする、あるいは芸能ジャーナリズム的興味とは無縁に、俳優として、監督として、プロデューサーとして、全身映画人というべきその仕事を仔細に検討すること。勝新の不在を通して、日本映画の現在とやらが見えてくるかもしれない。 本当に面白い映画のことだけを。 プロデューサー、Kの仕事 「勝新前期」というべき大映時代はブロック・ブッキング制度が大前提であり、(三國連太郎や丹波哲郎といった「横紙破り」の剛の者を例外にして)映画俳優たちも各映画会社間で結ばれた五社ないし六社協定の下、映画会社と専属あるいは本数契約を交わすのが普通であった。この結果、各社ごとのカラーが確立される反面、俳優や監督の会社の枠を越えた自由な共演を困難にし、おもしろい企画の種を阻んできたといえる。 ブロック・ブッキング制が行き詰まった60年代後半に至って巻き起こったスター・プロの隆盛は、こうした協定下の不自由さの反動であった。三船敏郎の三船プロ、勝新太郎の勝プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助の中村プロと、続々と大物スターたちが自ら主宰する独立プロで映画製作に乗り出し、会社の枠を超えた共演を実現させた。けれども、そうして作られるスター・プロ作品の大半が時代劇大作で、順列組み合わせ的な「豪華共演」も観客に飽きられるのは早かった。三船、勝新、錦之助、裕次郎と各スター・プロの盟主たちが顔を揃えた鳴り物入りの大作『待ち伏せ』(70)が興行的に惨敗したのは象徴的であった。やがてスター・プロの動きも急速に終息し、各プロともリスクの小さなテレビ映画(フィルム撮影が主流だった当時、テレビドラマをこう呼んだ)に活路を見出してゆく。そのなかでひとり、勝プロだけは映画製作に固執した。無論、その裏には映画作りにこだわり抜いた勝新の執念があってこそだろう。 確かにプロデューサーとしての勝新はこの時期、獅子奮迅の大活躍をみせている。三隅研次、安田公義、森一生ら旧大映生え抜きの監督たちと組んで時代劇の伝統を絶やさぬよう、『座頭市』シリーズをコンスタントに製作するかたわら、『新兵隊やくざ 火線』(72)、『悪名 縄張荒らし』(74)と大映時代のヒットシリーズをリメイク。同2作や『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(73)で増村保造を起用し、この異能の作家が半面、豪快な娯楽映画づくりの才能であることを証明したのも勝新だ。 プロダクションを主宰するオーナーとしては、その映画作りはソロバン勘定のみが優先するのではないことは、勅使河原宏との異色のコラボレーションを実現させた『燃えつきた地図』(69)や、初監督に乗り出し、その勅使河原も顔負けの堂々たるアヴァンギャルド映画を実現させた『顔役』(71)を見れば明らか。当時の日本映画界を覆っていた即物的に刺激を求めるエロ、グロ、ヴァイオレンス志向の企画には目もくれない一方で、実話に基づいた「元祖にんげんドキュメント」のような地味な映画『片足のエース』(71)を作らせてしまうのだから推して知るべし。 |
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| 確かにプロデューサーとしての勝新はこの時期、獅子奮迅の大活躍をみせている。三隅研次、安田公義、森一生ら旧大映生え抜きの監督たちと組んで時代劇の伝統を絶やさぬよう、『座頭市』シリーズをコンスタントに製作するかたわら、『新兵隊やくざ 火線』(72)、『悪名 縄張荒らし』(74)と大映時代のヒットシリーズをリメイク。同2作や『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(73)で増村保造を起用し、この異能の作家が半面、豪快な娯楽映画づくりの才能であることを証明したのも勝新だ。 プロダクションを主宰するオーナーとしては、その映画作りはソロバン勘定のみが優先するのではないことは、勅使河原宏との異色のコラボレーションを実現させた『燃えつきた地図』(69)や、初監督に乗り出し、その勅使河原も顔負けの堂々たるアヴァンギャルド映画を実現させた『顔役』(71)を見れば明らか。当時の日本映画界を覆っていた即物的に刺激を求めるエロ、グロ、ヴァイオレンス志向の企画には目もくれない一方で、実話に基づいた「元祖にんげんドキュメント」のような地味な映画『片足のエース』(71)を作らせてしまうのだから推して知るべし。 骨太の時代劇『人斬り』(69)ではフジテレビと組んでテレビ局の映画進出の先鞭をつけている。作家の三島由紀夫を引っ張り込み、彼が『憂国』(66)に続いて切腹をする場面のあるこの映画の翌年、三島はほんとうに割腹したのも何かの符号だったのか。監督はテレビ映画『三匹の侍』で評判になった五社英雄で、撮影の森田富士郎、美術の西岡善信ら崩壊寸前の旧大映京都撮影所のスタッフたちが底力をみせた。彼らの仕事ぶりに感激した五社は以後、西岡や森田らとコンビを組んで『鬼龍院花子の生涯』(82)をはじめとするヒット作を連作する。これも勝新の触媒としての磁場の強さの証だろうか。 『無宿(やどなし)』(74)で東映の看板スター、高倉健を引っ張り込むことに成功し、「日本のルルーシュ」こと斎藤耕一を監督に招き、ボクシング界の枠を超えたスーパースターの姿を追ったドキュメンタリー『モハメッド・アリ 黒い魂』(74)を作り、沈滞する映画界に何とか話題を提供しようとするエンターテインメント精神。 新しい才能を発掘する才能にも長けていた。ふだんからアンテナを周囲に張り巡らせるタイプではなく、人と人との出会いから生まれる偶発的な異分野探知能力。岩波映画出身で、ドキュメンタリーとフィクションのあわいに真実を見出す映画作家、黒木和雄がなぜか勝新に気に入られ、『座頭市』や『警視‐K』で斬新な演出を見せたのも偶然ではない。黒木の『キューバの恋人』(69)で、現地のカーニバルの模様をとらえた場面で、座頭市のコスプレで仕込み杖を振り回す男が一瞬映ったが、たぶん、このときから「必然」は始まっていたのだ。 勝プロ製スプラッタ時代劇の影響 |
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