![]() ![]() 美と円熟と。 テレビ版『座頭市』の世界 銀幕を舞台に紡いできた勝新太郎という題名の長い長い物語は、高倉健と共演した『無宿』とドキュメンタリー『モハメッド・アリ 黒い魂』の興行的失敗で、1974年を最後に途絶える。同じ年、テレビ版『座頭市物語』がスタート、76年から79年にかけては『新・座頭市』と題して毎年1シリーズが放映、実に4シリーズ、計100話にも及んだ。森一生、三隅研次、安田公義ら旧知の監督たちに混じって、勝新も精力的に演出を手がけた。映画のシリーズと違って、テレビ版は毎回のゲストスターが主人公であり、市と彼らのふれあいが描かれる。石原裕次郎、浅丘ルリ子、植木等、吉永小百合、丹波哲郎、森繁久彌……ぜいたくなキャストの見せ場を用意し、劇場用映画に劣らぬクオリティの高さはテレビ作品であることを忘れてしまうほど。たまたま16ミリフィルムで撮られただけの、つまりは映画そのもの、時代劇そのものなのだった。『顔役』や『折れた杖』でみせたアヴァンギャルドな要素は影を潜めるものの、代わりにゲストスターの表情や芝居を心ゆくまでフィルムに切り取ってやろうという意思が伺える。とくに女優を美しく撮るときの腕の冴えはちょっと比類がない。その成果のひとつが浅丘ルリ子主演の「心中あいや節」であり、原田美枝子主演の「不思議な旅」である。 『新・座頭市』の第3シリーズの最終の2話「虹の旅」「夢の旅」は勅使河原宏が監督。とりわけ、市の目が見えるようになる後者は、お茶の間よりも草月ホールでの鑑賞がふさわしいような大実験映画大会と化した。女優を美しくとらえる監督の目と、破天荒な実験をおもしろがるプロデューサーの目と。これに俳優の目が加わった勝新は、もとより単眼的思考とは無縁であり、いわば最強の知覚能力を持った稀有の表現者だったのだ。『座頭市』の旅を終わらせた勝新自身の旅はまだまだ続き、そして意外な道を辿る。 はだかの演技、はだかのことば。 『警視−K』の到達点 黒澤明と勝新太郎。およそ交わるはずのないふたつの描線は、やはりついに交差することはなかった。『影武者』(80)降板事件。日本映画の歴史を考えたとき、やはりそれは不幸な事件だった。運命に翻弄される男を描いた巨大なプロジェクトから途中離脱した勝新が選んだのは、『影武者』とはまるで正反対のちいさなちいさなドラマだった。『警視−K』が放映された「日本テレビ系・火曜夜9時」は、石原プロの『大都会』シリーズ、松田優作の『探偵物語』、藤竜也と草刈正雄主演の『プロハンター』など、男臭い刑事アクションが連綿と続いた伝統の枠。当然、この番組もそのセンで企画されたと思われる。新番組の予告編ナレーションに曰く、「悪い奴らが噂する、ガッツ警視に気をつけろ」。おそらくテレビ局側が期待したのは、毎回、勝新演じる主人公がチェーンのついた手錠(!)を投げて犯人を逮捕する、いわば『御用牙』シリーズの現代版のような刑事アクションだったはずだ。 しかし、勝新が選択したのは、これまでに誰も観たことのないドラマだった。主人公の警視は賀津(ガツ、と読む。通称、ガッツ)勝利。警察の組織から自由な捜査をすべく、ガッツ部屋と呼ばれる部屋を与えられ、まるでちんぴらみたいな二人の部下がついている。ガッツは妻と離婚して愛娘とキャンピングカーに住んでいる。これは『影武者』出演が決まった勝が購入したものをそのまま使っている。問題の降板騒動があった日、車内で黒澤明と松の廊下紛いの騒動を演じたという、あのキャンピングカーだ。役名といい、つまりは丸ごとのおれ、丸ごとの勝新太郎を視聴者の前に放り投げている。それだけではない。娘役は勝の実娘・真粧美が、別れた妻は中村玉緒がそれぞれ演じており、勝と真粧美の会話などは親子の日常生活をそのまましのばせるリアルなものだった。そう、ここでもリアリティ。ノー・ライト、手持ちキャメラで自然光を多用した撮影は、逆光や夜間のシーンでは効果を発揮する反面、そこで何が行われているのかわからないこともある。語り口はぶっきらぼうで、省略と過剰がイビツなバランスを成し、視聴者の想像にゆだねられる部分も多い。親切に音声はシンクロ(同時録音)で、囁くような台詞はときに聴き取りづらい。紙に書かれた台詞のうそ臭さを信じない勝新は、即興演出で物語を刻んでいった。『警視−K』に参加した監督の根本順善はこう記す。 「演出者としての勝さんは、役者の段取り芝居をもっとも嫌い、一方でシナリオライター泣かせでもあった。なぜかというと、撮影台本が出演者に渡っても、セリフを絶対に覚えるなといい、ライターが苦労して構築した各シーンの狙いだけを尊重し、書かれたセリフはすべて破棄し、あらためて現場でつくり直してゆく。」(「人と契らば濃く契れ 川谷拓三と僕」葦書房) メソッド演技とかエチュードとかインプロヴィゼイションとは無縁に完成させた、勝新流の即興演出。そこから生まれたのは血の通った人間だった。石橋蓮司や川谷拓三や原田芳雄といったベテランたちが勝新の手によってこれまでの演技術を剥ぎ取られ、素っ裸にされてゆく。百戦錬磨の彼らが今までに見せたことのない表情と仕種をみせるその過程が実にスリリングなのだ。ここではもう『顔役』のように、ワンカットごとに人を驚かせるようなテクニック上の実験など必要ない。俳優たちの演技を片時もキャメラは見逃さず、マイクは聴き逃さない。ドキュメンタリーとフィクションのあわいにこそ、真実は生まれる。だから全13話中8話の演出を手がけた勝新の演出を除くと、2話担当の黒木和雄がもっとも親和性を発揮し、森一生の担当の回がいちばん「フツーの刑事ドラマ」のようにみえたのも納得がゆく。 こうした演出アプローチで描くのは、近代社会の都市の犯罪を通してみえる人間の実相だ。死体から血液を一滴残らず抜く猟奇犯罪や利己的な幸福のために虚言症にも似たシラを切りとおす青年といった、不穏な犯罪が日常の光景となった現在こそ実感を覚えるエピソード。子を思う親の心が生んだどうしようもなく哀しい犯罪。不条理なまでの現実をまっすぐに見据えるガッツの眼差しは勝新の目そのもの。『燃えつきた地図』で主人公の別れた妻を中村玉緒が演じていたこと、あるいは『顔役』で妨害を受けて捜査が中止になったとき、主人公が呟く「スイッチ切れても動く機械、ないんかな」という台詞が『警視−K』の第10話「いのち賭けのゲーム」でかたちを変えてリフレインされることを思えば、ガッツはかつて『燃えつきた地図』で「傍観者」だった男が、『顔役』の「観察者」を経て、「当事者」となって帰ってきた姿なのかもしれない。不器用に正義を信じることしかできないガッツは、そのまま勝新の映画に対する姿勢なのだ。 だが、こんなにまで誠実におもしろさを追求した意欲作も視聴率の低迷にあえぎ、全26話の予定が途中で打ち切られてしまう事態に至った。これこそ理不尽な現実ではないか。しかし、テレビのフレームに持ち込まれた『警視−K』はテレビドラマの枠組みを超え、映画そのものの相貌を剥き出しにしたのもまた事実であった。ある意味、劇映画から遠ざかっていたこの時期のゴダールよりもずっと過激なことをテレビでやっていたのが勝新なのかもしれなかった。 そして現在。誰もが勝新のいない風景に違和感を覚えなくなってきたようだ。座頭の市っつぁんのように、ふらりと旅から舞い戻ってくることはもうない。だが、勝新が残した映画の数々は、いささかも揺るぐことはない。オール・手持ちキャメラ、セット撮影や人工照明の禁止など、「ドグマ95」なる結社的映画運動体が自らに課したマゾヒスティックなまでの縛りに、現代の映画はここまで脆弱になっているのかと嘆息した(しかも、けっこうオーソドックスなドラマを描くツールとして使われていたりする)。そんなの勝新が『顔役』や『警視−K』で、とっくにやってるよ! しかももっと自由に、もっと大胆に、もっとおもしろく。もう観ることのできない、北野武や三池崇史や阪本順治とのコラボレーションを夢想するより、勝新がうっかり置き忘れてしまったものの使いみちを考えたほうが、今はちょっと楽しそうだ。 |
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