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2001.2.2 UPDATE


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| 『巨人と玩具』('58)、『妻は告白する』('61)、『卍(まんじ)』('64)、『兵隊やくざ』('65)、『清作の妻』('65)、『刺青(いれずみ)』('66)、『陸軍中野学校』('66)、『赤い天使』('66)、『盲獣』('69)、『痴人の愛』('67)、『セックス・チェック 第二の性』('68)、『でんきくらげ』('70)、『音楽』('72)、『大地の子守歌』('76)、『曽根崎心中』('78)…。数々の秀作、異色作を発表しながら、'86年に62歳でこの世を去った“不遇の天才監督”増村保造。彼が発表した全57作品のうちから、その大部分を占める50作品を一挙上映する<増村保造レトロスペクティブ>が、11月4日から10週間にわたり渋谷のユーロスペースで開かれる。 |
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| 増村保造は、東大法学部を卒業し、アルバイトのつもりで大映に入り、助監督として働くかたわら再入学した東大哲学科を卒業。英語による論文によって、イタリア映画実験センターへの留学を果たす。その2年余りの間に、古今東西の映画を系統的に学び、街のシネクラブに通って映画を論じ合い、チネチッタで撮影された日伊合作の『蝶々夫人』('55/カルミネ・ガローネ監督)の助監督を務め、そのころ書いた論文「日本映画史」はイタリアで高く評価された。帰国すると、溝口健二、市川崑の各3作品の助監督に就き、'57年に32歳という当時としては異例の早さで監督に昇進した。 |
そして、デビュー作『くちづけ』('57)で日本映画に変革を起こした。エネルギッシュに躍動する人物像、誇張に満ちた荒々しい表現描写
、スピーディなカメラワーク、極端に早いセリフ回し、日本映画の特徴であった湿っぽい情緒性を真っ向から否定し、戦後の“新人監督ブーム”のリーダーとなったのだ。その姿勢は、遺作『この子の七つのお祝いに』('82)まで貫かれたが、時代が彼に追随することができず、そのため一部の人を除き、正当な評価を得ることはなかった。皮肉を込め、増村は語った。「俺は10年早過ぎた」と。
そんな状況は死後も続いたが、10年ほど前から増村映画がにわかに認知され始めた。ニューヨークやパリ、ローマをはじめとする海外で回顧上映が催され、日本でも名画座などで特集が組まれ、若者たちが劇場に詰めかけたのだ。“増村ブーム”の到来は、もはや時間の問題だった。しかし、相次ぐ名画座の廃館に呼応するかのように、上映される機会が軒並み減少し、日本での再評価の気運は消え失せた。残念なことに現在、「好きな映画監督は?」と問うても、「増村保造です」と答える人は、ほとんどいない。今回のレトロスペクティブは、そんな沈滞ムードを打ち破る起爆剤だといえるだろう。スロウトレイン編集部は、「増村保造!」と叫び続けてきた人たちの情熱に賛同する。
今回新たにスタートする<FEATURE TRAIN>では、数多くの増村作品を手がけてきたプロデューサー、藤井浩明氏のロング・インタビュー(全3回予定)、連載「道草魂」でおなじみの宇田川幸洋氏、多方面
で活躍する映画評論家、桑野仁氏らによる評論によって、“不遇の天才監督”増村保造の魅力を解き明かしていく。また、映画監督・増村保造にもう一歩接近するため、参考資料としてバイオグラフィを収録する(11月中旬掲載予定)。新たな増村ファンが誕生することを願ってやまない。 |
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