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2004.5.6 UPDATE

後藤和夫
text by Kazuo Goto

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どうせ暇だ。たまには「ひとりNGO 」もいいか。
「打算」を「善意」に置き換えて
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Ж 昨年の4月1日、私はヨルダンのアンマンにいた。3月31日までカンボジアにいて、イラク戦争勃発を聞き、「遅れた覗き屋(ジャーナリスト)」としてアンマンでうろうろしていたのだった。しかし、ビザは手に入らず、私のバグダッド行きはかなわなかった。今しばらく空爆は続くだろう。イラクはそんなに早く降参しないだろう。私は根拠なく自分に言い聞かせ、数日後パレスチナに向かった。
先輩たちがバグダッドに入っていた。多くの大メディアは本社命令でアンマンにとどまっていた。私はじっとしていられなかった。誰に何を頼まれたわけでもないのに、何か「実」のあることがしたかった。私は居場所が見つからず、誰のためでもない、居場所が見つからない自分にいらだっていた。中東の青空が私のわがままな孤独をせせら笑っているようだった。
アンマンのバス停で、偶然バグダッドから逃げてきたパレスチナ人学生に会った。サダム・フセインはパレスチナ難民の貧乏な学生たちを奨学制度でバグダッドに招いていた。パレスチナ人がサダムを支持する理由のひとつだ。戦争が始まり学生たちはアンマンに逃げてきた。一度パレスチナに戻ってしまうと、今後いつ国外に出ることが許されるか分からない。早くバグダッドに戻りたい。しかし今戻ることはできない。ヨルダン政府も再難民化した彼らの滞在を長くは許さない。4人の学生たちは途方にくれているようだった。
故郷では、家族が彼らの安否を不安に思っていることだろう。幸い私は切迫した任務もない放浪の覗き屋だ。彼らが今危険地帯から脱出して無事であることを知らせてやろう。彼らの家族へのメッセージを撮影し、それぞれの住所を聞いた。そこはどこもパレスチナ内の難民キャンプだった。どうせ暇だ。たまには「ひとりNGO 」もいいか。バグダッドに行けない以上、「イラク戦争の影で」というドキュメントでも作ってみるか。やややけくそな企画だが、どこかで金を回収しなくちゃという「打算」を「善意」に置き換え、自分を納得させたのだった。
Ж いつもこういう具合だから、イラクで拘束された高遠さんのような「ひとりNGO」に較べ、私の行為にはみっともない後ろめたさがあった。自分の行為が正しいのだという信念も矜持もなかった。 「ありがとう、よろしく頼む」と学生たちは言った。故郷にメッセージを届けると言った初対面の日本人を、彼らはどれほど信じただろう。 「ああやってみるよ、また会おう、サヨナラ」 私たちは挨拶を交わした。明日の不安を抱えながら、彼らはアンマンの町に消えた。
「また会おう、サヨナラ」 この言葉をこれまで何回使っただろうか。 ベトナムで不発弾で足を失った青年を取材した時、アンコールワットでポル・ポトに育てられた青年と時を過ごした後に、サラエボで私をガイドしてくれたタクシードライバーとの別れ際に、銃弾降り注ぐパレスチナのジェニンで一晩泊めてくれた、つかの間の友人と別れる時、38度線の地雷村で一晩のみ明かした韓国人青年との別れの朝に。
私はこれまでいくつもの「サヨナラ」を交わしてきた。 そして「また会おう」の多くは実現されずに、記憶の中だけに閉じ込められてきた。 私が彼ら彼女らと「また会うこと」は果たしてあるのだろうか。 残念ながらそう多くは期待できない。
「いつだって、何もしないで傍観したり、まわりの不幸を記録することしかできないのは、辛いことだ」 20世紀の戦争を撮り続けたロバート・キャパはこう言ったという。 40歳で逝ってしまったキャパの足元にも及ばないのだが、私も私の中に「何もしないで傍観ばかり」している自己をたびたび発見する。 私は「見ることよりほかに」何もできないのである。そして、かろうじてそれをたどたどしく伝えることしかできないのである。 その無力感にさいなまれながらも、かろうじて届く声が、その声を聞いた人々によって拡散することを祈るだけなのである。
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