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プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」
第8回 「NGOは誰のため?」
第9回 「アフガンは笑う」
第10回 「私の中のテロリスト」
番外編 「パレスチナから帰ってきました」
第11回 「ローマの休日」
第12回 「クナシリ漂流」
第13回 「世界でいちばん憂鬱な場所」
第14回 「極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第15回 「続・極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第16回 「『戦争の実相』(4/20)/『普通に豊か』(5/23)」
第17回 「どこまでも太陽政策・私たちと違う場所(6/15)」
第18回 「『終わらない夏』-父の書斎にて」

<< Special:後藤和夫氏 ロングインタビュー


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テレビは瀕死の状態だ。
だからこそ『テレビよ、死ぬには早すぎる』と言いたい。


Ж 3年前に私はフリーランスのテレビディレクターになった。2ヶ月とあけずパレスチナに行き、アフガンや北朝鮮やカンボジア、時間があればNGOピースボートに講師として乗り世界の港を見て回った。お気楽な生活。いやほとんど生活していないような生活を送ってきた。家族の顰蹙も限界を超えていた。「素敵だね」とは時たま言ってもらえたが、「いい加減にしろ」とのべつ言われた。二人の娘は自分たちも含めて「うちにはフリーターが3人もいる」と言っていた。私はフリーターにはやや自尊心を持ってはいたのだが。

4月から久米宏さんが抜けるテレビ朝日の『ニュースステーション』が古舘伊知郎で新スタートする。フリーになってから私は古舘プロジェクトに所属させていただいている。その縁もあって、プロデューサーの一人として参加を乞われた。そして私も積極的に参加の意志を示した。
連載でも私は何度もメディアのあり方を批判してきた。テレビで仕事をしながら今のテレビに不満をぶつけてきた。
私が生活の場として選んできたテレビ。私の中にあるテレビ。
実際、テレビは瀕死の状態だ。
だが、テレビよ、「死ぬには早すぎる」。
私もまた「逃げるには早すぎる」のだった。だから再び内側に。

たとえば、爆笑問題の太田光『パラレルな世紀への跳躍』の中の一文。
「現代の社会を否定的に話す人に私が嫌悪感を持つのは、その態度に自分が属している世界への無責任さを感じるからだろう」「漠然とした"社会"という言葉に責任を押しつけている限り進歩はない」

たとえば、久米宏降板に寄せた永六輔の談話。
「ニュースを分かりやすく伝えた功績は大きいと僕も思う。でも『主張する司会者』と評する一部の見方には賛同しません。ひげを生やしたことやファッションについては確かに主張を見せたかもしれないけれど、番組で語っていたのは基本的に、主張でなく感想です。
主張と感想の違いですか? 感想は...あまり責任を負わなくていいでしょう」

内側から何ができるか。おそらく何もできないだろう。
かつて私が作った番組の中でテレビマンユニオンの萩本晴彦は言った。
「テレビには何もできない。できるのは人間だ」
内側の人間でいること。そこで何ができるか考えること。何ができないか考えること。自己責任をメディアは放棄したのかどうかを考えること。デジタル化した機構の中でマニュアル車を運転できるかどうかの挑戦と冒険。
そしてまた私は思う。外側から何かできただろうか。21世紀になって論壇や知識人に何かができただろうかと。

たとえば国際政治学者 藤原帰一の時評。
「ポピュリズム批判には、『愚かな国民』に対するエリートの優越感を感じさせるものも少なくない。そのエリートたちが国民から信用を失ったという現実にとりくまなければ、現状破壊を訴えるだけで支持を集めるようなポピュリズムがなくなることは期待できないだろう」

たとえばパレスチナの映画監督エリア・スレイマンがエドワード・サイードの死に寄せた一文。
「サイードは映画というものにあまり興味がなかった。彼には、あまりに大衆的な芸術でありすぎた。それほどよくあることではなかったが、彼はパレスチナの大義を推進するとされる映画を観たときには、みずから積極的にその映画を売り込んだ。だが愛はときに盲目となることがあり、パレスチナについても同じことが言えた。(中略)
映画は不向きでもある。時間の価値の切り下げや空間の縮小についていくことができないためだ。映画の勃興を招いた産業革命そのものが、両者を破壊しているのだ。カメラは戦争の道具として生まれたが、革命家が意図したような方法で銃として用いられることはなかった。詩的な抵抗、前進しても輪を描くだけで、『現在』とは同調しておらず、即時性はない。映画が『わたしたち』とともにあるという信念は動かないが、それは長い目で見ればのはなしだ」

勿論「映画は娯楽。テレビは堕落」だ。あまりに大衆的な芸術として映画に興味を持たなかったサイードは、テレビをあまりに堕落したメディアとして唾棄していたかもしれない。
私は、ずっと堕落の世界とつかず離れず生きてきた。
テレビ報道は「欠陥商品」だし、時には「権力の補完装置」であったり、「政府の広報」であったりもした。これからますますそうなる危険性があるし、そうなった時には絶望的なまでの力を潜在させている。憲法21条も風前の灯だ。

しかし一方でエリートは衰退した。『世界』や『週間金曜日』が『フライデー』より売れるということはないだろう。
『愚かな国民』はテレビの垂れ流しに胡散臭さを感じながらも付き合わざるを得ない。
しかしそこには『現在』と『即時性』だけは特性として確保されている。
まさに『テレビよ、お前は現在に過ぎない』のだ。そして嫌になるほどの影響力を持ってしまった怪物君なのだ。
だからこそ『テレビよ、死ぬには早すぎる』と言いたい。
怪物は自らを解体しなくてはならない。その肥大化に自らが身動き取れなくなっているのだから。
決して楽ではないが、『諸刃の剣』の片側だけを錆びさせるわけにはいかないじゃないか。
その可能性はまだある、とかすかに信じたい。



※「パリの天才ドライバー」は、ガタゴトと石畳から身体にじかに伝わる振動に興奮しながら、ひそかな決心をしたのだった。マニュアルで行こう、と。

というわけで、今年の4月からは『新ニュースステーション』のプロデューサーの一員として仕事をします。でも連載は続けます。
今、世界は多種多様な価値観がひしめき合い、ますます無秩序な様相を見せ始めています。
無秩序ならば、なんとかなる。そう思っているのです。
太田光も言っています。
「どうせそうならざるを得ない運命ならば、せめて、しなやかに崩壊する道を歩みたい」。





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