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プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」
第8回 「NGOは誰のため?」
第9回 「アフガンは笑う」
第10回 「私の中のテロリスト」
番外編 「パレスチナから帰ってきました」
第11回 「ローマの休日」
第12回 「クナシリ漂流」
第13回 「世界でいちばん憂鬱な場所」
第14回 「極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第15回 「続・極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第16回 「『戦争の実相』(4/20)/『普通に豊か』(5/23)」
第17回 「どこまでも太陽政策・私たちと違う場所(6/15)」

<< Special:後藤和夫氏 ロングインタビュー


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Ж 8月8日の深夜、父の遺体は実家の畳の間に横たわった。ドライアイスを施された父の死顔を一族が見つめた。私を含め3人の男ばかりの兄弟は今はそれぞれ家庭を持ち、一族が集まると15人にもなった。通夜までの3日間、実家は忙しくも賑やかだった。私たち兄弟が葬儀の通知先を手分けしてやる中、甥や姪、私の娘や孫たちは、マージャンやゲームで遊び、父を偲ぶというよりも正月に集まったような笑い声が響いていた。妻や弟の嫁たちが手分けし料理を作り、年に数回集まるいつものような宴会が繰り広げられた。そこに死体が横たわっていることが不思議な時間が過ぎた。「笑いすぎだよ」とか、「死体が起き上がるぞ」とか、悪い冗談も飛び交っていた。これが身内が死ぬということなのか。これまで、身内の死を経験したことのない私は奇妙な充実感の中で忙しく長男の責任を全うしていた。皆から見れば、頼りがいのある長男を演じていた。おそらく父が私に望んでいた姿のままに。

私たちは何回も父の書斎を行ったりきたりした。同窓会名簿はどこに、公務員時代の名簿は、大学教授時代の名簿は?皆がそれぞれ父の書斎に物を探しに行った。そして、行くたびに父の几帳面さを見て、感心してそこを出て来るのだった。父の書斎は父の82年間の人生を見事に映し出していた。一日も休まずつけていた日記。新聞や雑誌の切抜き。手紙類の引き出し。出納表や、薬の処方箋、はがした切手までがきちんと整理されていた。どの引き出しに何がどのように整理されているか、父は把握していたし、そうしなければ落ち着かない性格だった。昨年の10月に入院、11月に食道癌の大手術、1月に退院。帰宅した父は体力を回復させるために散歩を義務づけていたが、その散歩のコースまでが詳細な地図入りのメモとして残っていた。万歩計をつけ、今日は何歩、何キロ歩けた、明日はもう少しという、父の回復への意思が残されていた。日々のスケジュールをきちんと立て、それに忠実に従うのが父の生き方だった。3月、父の誕生日を皆で祝った時父が嬉しそうに言った。「後藤家ギャラリーを作ったぞ」交代で書斎を覗くと、書斎の壁にいくつもの写真が額に入って飾ってあった。80年間の記憶の数々だった。昨年5月、皆で父の故郷である大連に出かけた時の誇らしげな父の姿もあった。私が高校生の頃の家族写真もあった。そこにややふてくされ気味の私の顔があった。

一族の誰もが、父の几帳面さを知っていた。私の娘はいつも「爺ちゃんはカッコいい。紳士だ。決して怒らないし、黙って聞いている」と評した。冷静さと謹厳実直、それが父の姿だった。父はガンが再発し、再入院した7月も克明に日記をつけていたし、紳士としての矜持を最後まで失わなかった。だから、私は死を迎える前の2週間に変貌した父の姿にうろたえた。決して激する姿や甘えることのなかった父が、癌という病魔の前で崩れて行った。看護婦におしめを取り替えられる屈辱に父は抗った。母を怒鳴った。その後すぐその反省と自責の念で父は私にこっそりと謝り、「すまない、ありがとう」と力なく言った。かっこいい爺ちゃんではなくなっていた。しかし私にはそれでよかった。素直に感情を発する父が微笑ましかった。もう紳士を演じなくてもいいんだ。もう少し生きてくれ、聞きたいことがある。その激さない生き方、冷静な生き方はどこから生まれたの?私たちにとってこよなく優しかった父、その優しさはどこで手に入れたの?




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