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プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」
第8回 「NGOは誰のため?」
第9回 「アフガンは笑う」
第10回 「私の中のテロリスト」
番外編 「パレスチナから帰ってきました」
第11回 「ローマの休日」
第12回 「クナシリ漂流」
第13回 「世界でいちばん憂鬱な場所」
第14回 「極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第15回 「続・極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第16回 「『戦争の実相』(4/20)/『普通に豊か』(5/23)」
第17回 「どこまでも太陽政策・私たちと違う場所(6/15)」

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2003.12.12 UPDATE



後藤和夫
text by Kazuo Goto





Ж 弔電
「ご尊父様のご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます。生意気盛りの高校生であった私達とも対等の視線でお話してくださるふところの深いお父さんでした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」

8月8日父が死んだ。11日の通夜の晩、私の同級生から弔電が届いた。別な同級生からはE-mailで同じ意味の文章が届いた。

「あの時代に我々と正面から向き合って語り合ってくれた父上のご尊顔今でも思い出します。受験をどうするんだ、高校生は机にしがみついていればいいんだという大多数の父親の中にあって我々と語りあおうとしてくれた父上を先年亡くなりました私自身の父同様、尊敬申し上げてまいりました。」



Ж あの時代。1969年から70年にかけて。私は都立の高校に通うごく普通の高校生だった。大学紛争のあおりを受けて、普通の高校生は落ち着かなかった。1969年1月の東大安田講堂の陥落は、進学校にいた私達に影響を与えた。「大学なんか行っても意味があるのか」それは、学生達が反権力を叫ぶその意味とは別なものだった。私に関して言えば、ちっとも面白くない日常がこのまま続くことに対する苛立ちと、もてあました退屈の中で、「何か面白いことないかな」と煩悶する中から出てきた、なんとも頼りない大学否定だった。単にこのまま普通でいることに耐えられない、はっきり行って現実逃避に過ぎなかった。それを現実否定に転化し、自己否定などと嘯いていた。

医学部の問題に端を発した東大紛争に較べ、なんとも矮小であったが、私の通う都立高校では、修学旅行に関するリベート問題だったと思うが、数人の生徒が学校側を追及し、ハンスト、集会、さらに大学紛争を真似した授業ボイコット、全学封鎖とエスカレートして行った。大学受験を真剣に目指していた学友にとっては迷惑な連中だったろうが、私はボイコット側のグループの中にいて「退屈ではない日常」の中ではしゃいでいた。調子に乗って、PTA集会に、当時のファッションともいうべきレインコート姿でつたない演説をぶったこともあった。その日帰宅すると、母がたくさんの抗議電話に応対している姿があった。「あんた学校で何したの?」であった。親しい友人何人かとともに、親達から見れば私は首謀者の一人だった。

そんな日々の中、友人の父親と私の父の二人が首謀者グループを集めて話し合いを持った。今となっては話し合いの内容などはまったく忘れたのだが、友人の父親も私の父親も、学校に反逆する理由をわめき散らす私達に対して、それを諌めることも否定することもなくじっと耳を傾けてくれた。「誰が学校に行かせてやっていると思ってるんだ」とか「学生の本分は勉強することだ」とか、私達がうんざりするような小言は一切なかった。高校生の時などは仲間といる時は元気な奴も、いざ親が出てくると萎縮してしまうものだが、私もなんだか居心地の悪さの中で聴いていたと思う。私の父は「君達が正しいと思うならそうすればいい」と言ったと思う。私はみんなの手前そう言っているのかな、と思ったり、本当は私自身に対しては失望や怒りを持っているんじゃないかな、と思ったり、よくわからなかったというのが正直なところだった。その日父と二人きりで話をしたかどうか、まったく記憶がない。ただし、私の父母が学校やPTAに意味もなく謝罪したりしなかったことは確かである。とにかくその時の私の父の対応が、仲間にも印象に残っていたのだろう。



Ж あれから30数年。弔電の一文で私は、父の在りし日の姿をあらためて思い出した。ふところの深いお父さん。そうとも言えるな。そうとも思ってきたな。話し合うこと、理解すること、認めること。その意味では私の父はきわめて民主的な男だったと言える。しかし、それは本当の父の姿だったのか。本心では私に対して叱責したかったのではないか。もっと感情的になりたかったのではないか。そうではないとしたら、彼の何がそうさせたのか。ごくたまに、冗談めかして言うことがある。「あの時親父が暴力的に勘当だ!とか、許さん!とか言ってくれていたら、俺の人生も違っていたのになあ」なんとも甘ったれた言い方だが、たまに己の人生と向き合う時に、父の私に対する向き合い方に、わずかな疑問が頭をもたげることはあったのだった。

私はあの日からずっと、いつか父の真意を聞いてみたいと思ってきたことを、今思い出す。そう、ずっとそのことが気になっていたのだった。いつか聞いて見たいと思っていたのに、とうとう聞けなかった。そのチャンスは永遠に失われた。それに気づいたのは、父の葬儀が終わり、残った母のために煩雑な後処理をやり、後は墓だねと、事務的なことの忙しさにかまけていた夏も終わりに差し掛かったころだった。悔恨がボディブローのように徐々に効いてきた。聞き逃したことはそれ以外に無数にあった。二度と聞くことの出来ない記憶。ああ、これが喪失感という奴か。

私の夏はまだ終わってはいなかった。いつまでも陽炎のように、私の眼前に漂っていた。父は中国の大連で生まれ、大連で母と結婚し、戦後の昭和22年に引き揚げてきた。病弱だった母と東京に住み、さまざまなアルバイトをしながら必死に生き、公務員となり、3人の息子を育て、堅実に生きてきた。





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