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プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」
第8回 「NGOは誰のため?」
第9回 「アフガンは笑う」
第10回 「私の中のテロリスト」
番外編 「パレスチナから帰ってきました」
第11回 「ローマの休日」
第12回 「クナシリ漂流」
第13回 「世界でいちばん憂鬱な場所」
第14回 「極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」
第15回 「続・極寒でも太陽政策・平壌で二日酔い」









「危険だから」と尻込む報道に
真実は伝えられるのだろうか


Ж しかし、私が伝えたいのは橋田氏のそのシーンが戦場の実相を伝えているという、そのことだけではない。
そのシーンをテレビ局の部屋で見ていた時の、若い担当者の反応に私は若干の違和感を感じた、そのことであった。
「他にないんですか?」と言っていた担当者はこのシーンを見て「すごい! すごい!」と興奮した。おそらく見慣れていないシーンを見た興奮と、いい映像が手に入ったというメディアに関わるものとしての当然の反応であっただろう。そのことに違和感はない。私もそうした仕事に従事する一人だから、彼の素直な反応に納得がいった。
しかし、彼の「すごい」には、もうひとつの意味があった。おそらくは局にいてバグダッドから送られてくる数多くの映像を見ていた彼だが、実は実弾が飛び交うすさまじい音を聞いたのは初めてではなかったのだろうか。空爆や米軍の侵攻、遠くで響く爆撃音などはこれまで、まるで映画を見るように何度も見たであろうが、こうした市街戦や実弾が飛び交う生の映像を見たのはおそらく初めてなのではないだろうか。そして、その興奮はいい映像を手に入れたという以上に、新しい映画を見た興奮なのだった。だから、彼はそこで恐怖に震えていたであろう橋田氏を見て、「面白い、面白い」と笑えたのだ。すでにこの時点で、橋田氏の撮った映像はその担当者にとってバーチャルな戦場となっていたのだ。彼には当然戦場の実感はないのだった。

「そうか、実弾一発の音も実際に聞いたことがないんだな」と私はその時確信した。
戦場に行ったことはないんだな、と思った。それが私と橋田氏と、担当局員との間にある差異だった。
おそらくそれは珍しいことではない。多くの日本人が戦場体験なんかない。ないほうがいいに決まっている。

だが、メディアの側はそれでいいのだろうか。それで、戦争の実相、戦場の実相が伝えられるのだろうか、と私は思った。人が撮ってきた映像を映画を見るような興奮で受けとめる。素材を受け取って加工して放送に持っていくテレビ局員のその実感のなさが、現場と送り手と受け手の間に、ある微妙な差異を生んではいないだろうかと私は思ったのだった。
誤解のないように言っておくが、このテレビ局員が劣っていると言っているのではない。それは至極一般的な光景であったし、どこのテレビ局であっても普通のやり取りに過ぎなかったと思う。

実際、今度の戦争でバグダッドにいたジャーナリストはすべてフリーランスだった。
私はアンマンで多くのテレビ局や新聞社の人間と会ったが、彼らはバグダッドに入ることを本社から禁じられていた。とっくにビザを取っているのに「辞表を出さないと入れないんですよ」とぼやく者もいた。実際のところ彼らはバグダッド陥落後に一斉にイラクに入った。
実はそれまで、日本の大手メディアは戦争の匂いもないアンマンでみな暇をかこっていたのだった。勿論そうした大手メディアの中の私の親しい友人たちは、それぞれ必死でこの戦争を伝えようとしていたが、上司の命令は絶対だった。理由は何か? 
「危険だから」なのかもしれない。「もし何かあったら責任がかかってくるから」なのかもしれなかった。
パレスチナでもそういうことがあった。「ガザは危険ですからね。僕ら入っちゃだめだと言われてるんですよ。後藤さん行っていいの撮れたら教えてくださいよ」とテレビ局員に言われたこともあった。そのガザには日本の女性が4人も滞在していたことを私は知っていた。

大手メディアは、それぞれが契約したフリーランスからの報告を受け取るだけだった。それを本社で待機しているスタッフが戦争の実態としてそれなりに「加工」して送り出していたのである。ここに微妙な差異はないか。




Ж 橋田氏が勇敢にして、また同時に恐怖心を抱きながら現場にいたその実感、その温度や空気を知らずして戦争報道は成り立つのだろうか。

報道は戦争の何を伝えようとしているのか。アメリカの戦略なのか、イラクの独裁体制が崩れるさまなのか、戦争というゲームの推移なのか。当然それもあるだろうが、伝えるべきは、戦争が決して勇ましい物語なのではなく、忌まわしく悲惨であさはかな人間たちの愚行であり、恐怖と哀しみという感情さえもが無慈悲にも打ち砕かれるその実相にもあるのではないだろうか。
その実感なくして「危険だから」と尻込む報道姿勢は私たちに何をもたらすのだろうか。

勿論、だからこそ私たちフリーの仕事があるのだという言い方も出来るが、今はそのことではない。私たちが私たちの言葉で表現する機会や場所はますます限られているのが現状だ。

橋田氏が著書『戦場特派員』で書いている。
「平和な国に育った日本の青年が、戦場の恐怖を知らない青年が、本当に子供たちの心を理解できるのだろうか。もし本当にケアするというなら、少なくとも戦場の恐怖の一端を体験すべきだろう。今のパレスチナの子供の心を理解するには、一発の銃弾の音を聞くことが絶対の条件となる。そのチャンスから逃避して、修羅場が終わったら戻ってきて、したり顔で平和を語る。それを偽善という」

私はNGOならそれもいいと思う。橋田氏の言うように偽善とは思わない。NGOはいつも自身の偽善性と対峙し戦っている。
しかし、私たちの報道はそれでいいのだろうか。
一発の銃弾の音を聞くこともなく「危険だから」と尻込む報道に真実は伝えられるのだろうか。
そうして、実際に銃弾の音も聴いたことのない報道人が育ち、戦争を実感のないままに伝えていく。実感のないバーチャルのままで伝えていく。まるで映画を見るように。
常に安全圏にいて、偽善かどうかの自戒もなく。まるで日本という国を象徴するように。

橋田氏は別にも書いている。
「平和主義や非武装中立は、戦争をするよりもはるかに強い勇気を必要とする」

戦争の実相を伝えることを回避している日本のメディアが、より勇気を必要とする平和について、信念のある報道が出来るかどうか、はなはだ疑問ではないだろうか。

ノーム・チョムスキーは言っている。
「民主主義のもう一つの概念は、一般の人々を彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間の間だけで厳重に管理しておかなければならないとするものだ」
だとしたら、実相を回避した報道は、一部の特権的な階層が愛する、抑圧の装置としての民主主義に奉仕するものに成り下がりそうな危機にあるといってもいいのではないだろうか。
勿論これは、その報道に関わる私自身の大きな問題でもあるのだが。

橋田氏の著書は実業之日本社から出ています。面白いですよ。




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