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2003.5.28 UPDATE

後藤和夫
text by Kazuo Goto

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これまでのイラク報道にはなかったシーン
戦争の行方を左右するものではなかったが、
これこそが紛れもない戦場の実相だった
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Ж 戦場の取材では大先輩の橋田信介氏がバグダッドから帰ってきた。 橋田氏は3月の18日ごろからバグダッドに入り、20日の首都空爆を間近で撮影し、4月2日には当局から追い出されるも、すぐさまムジャヒディンのビザを取り再びバグダッド、首都陥落の9日の様子も撮影していた。 私は4月の1日にはアンマンあたりをうろついていたのだが、一度だけ橋田氏と連絡を取った。「後藤さんもすぐおいでよ」と言われたが、私にはイラクもシリアもビザがなく、行く方法が見つからなかった。それで、方向をパレスチナにとったのだが、このことはいずれまた報告する。 その時私は「相変わらずやってるなあ」という感想を持った。というのも、この先輩のこれまでの戦場取材の豊富な体験を知っていたし、私も一緒の時が何回かあったからだ。おそらく今回のバグダッドに入ったフリージャーナリストの中で、橋田氏は一番のベテランだったと思う。1970年代のベトナム戦争では空爆下のハノイにいた。その後のカンボジア、1991年の湾岸戦争、ボスニア、2001年のアフガンと橋田氏は戦場を駆け巡ってきた。
私が初めてパレスチナに行った時も一緒だった。銃弾乱れ飛ぶ中の体験のあまりない私に「僕が前に行くから後藤さんは後ろから撮ってね」と言ってカメラ片手に走り出すのがこの大先輩のスタイルだった。橋田氏と行動をともにしたパレスチナのガイドは、私に「橋田はクレージーだ」とこぼしたものだ。しかし、彼はただの怖いもの知らずではなかった。おそらく戦場の恐怖を誰よりも知っている一人だった。戦場にはどんなに勇敢でも恐怖心いっぱいの兵士がいる。それ以上に、敵も味方もなく巻き込まれる恐怖に逃げ惑い、早く終わって欲しいと願う多くの無数の無辜の人々がいる。そのことをいちばんよく知っているのが橋田氏だった。 外で見ている「戦争」と「戦場」とはまったく違うものであることを橋田氏は知っていた。 私はこの先輩の動物的『勘』というものを信じていた。時々「嫌な匂いがする、ここは避けましょう」と言って前に出るのを回避したり、戦車が砲塔を向けているのに、「大丈夫行きましょう」と言ったり、この先輩の勘はなぜか鋭かった。
Ж その橋田氏が撮影した素材を持ってあるテレビ局に行った。私も付き合った。これまで彼が現地で撮ってきた素材を私が編集するということがあったからだ。今回ももし番組が成立したら私にまとめてほしいというのが橋田氏の意向だった。 局のデッキで素材をチェックした。 首都の空爆、爆風で吹き飛ぶホテルのドア、侵攻してくるアメリカ軍の戦車、そしてフセイン像が倒壊するまで。今回のイラク戦争をバグダッドで撮った映像が並んだ。 かなりの迫力と現場の緊張が伝わってくるが、事実そのものはこれまで報道されたものだった。局の担当者も「他にないんですか?」という感じだった。
4月9日、橋田氏はフセイン像が倒れるのを見て「これで終わった」と思った。ホテルに帰ろうとして車を走らせた。 すると広い道の前方で車が燃えている。一息ついたであろう米兵たちも戦車の陰からややのんびりとそれを眺めている。 すると突然、激しい銃撃がその車のほうから起こった。突然の市街戦が橋田氏の目の前で起こったのだ。容赦ない銃撃音が、あわてて逃げわき道に走るゆれっぱなしの画面にかぶさる。わき道から覗く広い道には双方が打ち合う銃弾の閃光が行き来する。迫撃砲か、照明弾か、薄暗くなった街路の向こうのヤシの木が赤く照らし出される。道路を覗こうとしていたのんきな市民たちもあわてて後退する。さっさと隠れればいいのに、戦闘を日常とする人々の習性なのか、銃撃音の中をうろうろと野次馬のようにしている。そこに皮肉なようだが、混乱の焦燥の中に立たされた人間の実相のようなものが浮かび上がり、瞬間のユーモアのようなものも感じられる。 橋田氏はさらに後退し、カメラを地面に固定させ物陰に隠れる。相棒がその様子をも撮影する。耳をふさぎながら橋田氏は「もう戦争は終わったと思ったらいきなりの銃撃戦です」などとリポートする。予想してない市街戦に橋田氏も怖がっている様子が浮かび上がる。 これが、戦場の実体、そう思わせる緊張の数十分が記録されていた。 これはこれまでのイラク報道にはなかったシーンだった。イラク戦争の王道とはちょっと角度が違ったシーンだった。ここでの市街戦が戦争の行方を左右するものではなかったが、これこそが紛れもない戦場の実相だった。 |
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