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2002.10.25 UPDATE

後藤和夫
text by Kazuo Goto

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「還せ!北方領土」?
さっさと強行渡航しちまえ!
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こんな悪ふざけも空しい。俺は不詳宮嶋じゃないっつーの! |
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Ж8月のくそ暑い東京を離れて、北方四島のひとつクナシリ島に行ってきた。クナシリは北海道、根室の目と鼻の先であるが、ご存知のとおり『還せ!北方領土』のひとつであり、きわめて近くて遠い。
クナシリ、シコタン、エトロフ、ハボマイの四島は「日本固有の領土」であるが、1945年からソ連に実効支配されている。それはロシアになっても変わらない。「日本固有の領土」ならば、日本人ならいつでも誰でも行っていいはずだが、勝手に行くとロシア側としては、ロシアの領海を侵したな、領土に勝手に入って来たなということで逮捕する。これまで北海道の漁船が何度も拿捕されている。かつてエトロフ島でそうした拿捕船を見たことがある。
しからばどうやって行くか。ロシアのビザを取ればいい。ビザを取れば誰だって行ける。しかし、ビザを取るということは、そこがロシアであることを認めたことになってしまう。それは困る、というのが、日本政府の立場。
「固有の領土」と言っておきながら、勝手に行けない、ビザを取って行ってもいけない。なんとも厄介な島々である。
毎年、民族派の団体が納沙布岬で「還せ!北方領土」と叫んでいるが、本気で日本の領土だというなら、外務省なんて無視して強行渡航しちまわないのかと前から不思議だった。
Ж今年、鈴木宗男が北方四島への支援で私腹を肥やしているという疑惑発覚。宗男ハウス、宗男号、発電所や桟橋工事で贈収賄があったのでは? 当然あっただろう。政治家というものはそういうものである。
しかしあのころ、日本のメディアで自ら出かけて行って、その宗男の罪が、現実としてそこに暮らす人々にとってどうなのか、きちんと検証したものは少なかった。
取材に出かけたテレビメディアはなかったと思う。
なぜか。取材だと、ロシアのビザを取らないといけない。それをすると外務省が気分を害する。新聞社やテレビ局は外務省内に記者クラブを持っているので、行ったことがばれると、お咎めがある。お咎めといっても法律違反じゃないので「困りますね、勝手なことしちゃ」程度だと思う。それでもって各社気を使って行かない。いわゆる閣議了解に気を使っているのである。
事実、あのころ、俺は関係していたバラエティ番組で「今関心は宗男ハウス。クナシリの生活をドキュメントしたら」と提案したが、テレビ局のほうで「それはダメ」となった。これが日本のメディアの現実。
かつてTBSが「報道のTBS」といわれた頃、北ベトナムに田英夫キャスターを送り込んだ。自民党からお咎めがあった。その時、TBSの社長は「TBSは報道機関だ。国民が知りたいと思うところへは取材に人を出す。それがどうしていけない」と開き直ったという。知りたい、見たいところに人を出す。それが報道の基本的精神だろう。報道よ、どこへ行った?
Жならば、記者クラブに関係ない、テレビ局の社員でもないフリーの立場ならどうか。勝手にやってくれ、ということで、今回俺は11年ぶりにクナシリの土を踏んだ。そこに見たいものがあれば、国境侵犯だろうが、外務省無視だろうが、とにかく行く。それが覗き屋としてのジャーナリストだと思うのだが、民間交流団体「ピースボート」もそういう連中の集まりだった。現在、ビザなし交流は外務省主導でロシア間と取り決め、元島民や募集した返還運動者たちで年何回かやっている。今年は20回ほど。その同行取材でメディアも行っている。外務省のお墨付きでの取材で報道の自由か?
それを民間でやって何が悪いのか。宗男および外務省支援委員会がわれわれの税金使って何をやったのか、それを見に行こうとピースボートは企画した。ビザ取ったら困るというので、ロシアと直接交渉してビザなし渡航を実現した。最後まで外務省の横やりがあったが、ロシア側も商売だ。60人かそこらがちまちま来るより、何しろピースボートは500人以上の団体さんだ。政府間の取り決めより当事者の利害だ。第一、クナシリの人にし
てみれば、外務省主導もへったくれもない、団体さんいらっしゃい! である。
しかし、ピースボートの訪問は1泊2日。これに同行じゃ、ちと短すぎる。国後の人々の生活が見れない。で、俺は、独りで先に行ってみることにした。俺の場合ビザあり渡航ということになるのかなぁ、サハリン(樺太)には確かにビザで入国して、クナシリに入ったのだが、出国のスタンプは、サハリンのコルサコフ港になっている。つまり書類上はサハリン入国、サハリン出国となっている。ロシアも気を使ってくれたのよね。
Жところが、クナシリに着くまでが大変。今年は台風が多かったがもろに被害にあっちまっ
た。
クナシリに行くのに、8月16日、まず函館から飛行機でサハリンに渡った。サハリンから飛行機があるのだが、これが欠航続きで予約が取れない。しからば船でと思ったが、これも19日までないとか。しかたなくこれまた11年ぶりのサハリンですることなく過ごした。11年前といえば1991年。まさにソ連が崩壊した年。長い社会主義生活から今後どうなるのか。人々は不安のなかで暮らしていた。モスクワからはるかに離れた極東の島は9月というのに、暗くくすんで寒風が身体に痛かった。市場で残留朝鮮人のおばちゃんたちがキムチを売っていた。日本に強制連行され、サハリンまでやってきて、敗戦とともに置き去りにされ、祖国に帰ることもままならず、そのうち祖国は南北に分裂し、この地で子供や孫まで出来た老人たちは、望郷の念はあるものの、もう帰国はあきらめた様子だった。
今回も市場を覗いてみたが、おばちゃんたちの数はめっきり減っていた。ずいぶんと亡くなった人も多いのだろう。市場はすっかりきれいになってはいたが、社会主義時代とあまり変わらない雰囲気だった。市場経済、消費経済を謳歌するような活気はなかった。知り合いの朝鮮人夫婦は言った。「確かに自由になった。でも年金やアパートの保証もなくなった。一部の人が金持ちになり、貧乏な人が増えた」資本主義社会がもたらす繁栄は極東の島まで届いていないようだった。資本主義がもたらす、貧富の格差だけがこの10年の結果だった。
そんな中、町の競技場では残留朝鮮人たちによる開放記念日の祝典が行われていた。1945年8月15日は、ここでは開放の日だ。57回目の記念日を祝って、たくさんの人が集まっていた。民族衣装を来た3世であろう少女たちが踊り、町の歌自慢が祖国の歌を唄った。ここに南北朝鮮はないかのようだった。みんなただの朝鮮系ロシア人だった。それぞれが年に1回の開放記念日を楽しんでいた。民族の伝統をしっかり引き継ぎながら。
グランドではおばちゃんたちが持ち寄った料理が振舞われていた。物ほしそうに見ていた俺に、おばちゃんは「日本から来たの? 食べなさい、飲みなさい」としっかりとした日本語で声をかけてくれた。50年以上も前に日本語教育で叩き込まれた日本語は丁寧だった。忘れていないことにびっくりもした。なぜなのだろう。おそらく使う機会はそうなかったはずなのに。
この極東で60年近く苦労してきたおばちゃんたちはひたすら親切だった。
彼女たちの境遇を作ったのが戦前の日本であることは明白だった。
俺が言えたのは「おばちゃん、このキムチうまいね」ぐらいだった。
「そう、もっと食べなさい、お酒も飲みなさい」
なんだかとても「すいません」という感じだった。 |
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