Back Number
プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」
第8回 「NGOは誰のため?」
第9回 「アフガンは笑う」






2002.6.20 UPDATE



後藤和夫
text by Kazuo Goto





「無実の市民を巻き込む」のが「テロ」なら
アメリカもイスラエルの戦争も「テロ」だ


Ж やはり。
思っていたとおり、自爆テロが起こった。5月7日夜、イスラエルのビリヤード場は吹っ飛びイスラエル人15人が死んだ。

 パレスチナ、ヨルダン川西岸のジェニンやナブルスへの軍事侵攻。ラマラのアラファト議長監禁。イスラエルの圧倒的な軍事攻勢下でじっと我慢していた、イスラム原理主義組織ハマスが、待ってましたとばかりにテルアビブで自爆テロを敢行した。

 予想した通りだった。イスラエルのジェニンやナブルスでの虐殺は、テロ組織壊滅作戦なんかじゃなかった。その民族浄化、暴力的アパルトヘイトとも言うべき暴挙は、パレスチナ人の中に絶望的な怒りと徹底した抵抗心を作り出した。
ハマスは、人々の怒りを冷静、忠実に具体化した。
シャロンの狙いもそこにあったと思う。対アメリカ政策、対世界に対して「テロ撲滅」のスローガンを掲げて見せたものの、シャロンはこれを待っていた。
「テロ撲滅」と言いながらテロが起こるのを待っていた。パレスチナ国家を決して認めない、パレスチナ人の存在を認めない、パレスチナ人を抹殺するためには、パレスチナ人すべてをテロリストという「悪」に染め上げることだった。どんな圧制や攻撃にもパレスチナ人が屈しないことをシャロンは知っている。その抵抗の意志の強さを知っている。だから、これでもかという攻撃、これでもかという屈辱を与える。屈さないパレスチナ人は自爆テロという反撃に転じる。その時こそ、民族浄化のチャンスと思ったに違いない。

 なぜなら「テロ」ならびに「テロリスト」は、「悪」なのだから。「悪」の撲滅に反対する人は誰もいないのだから。しかし、果たしてそうなのか。果たしてそれは「悪」なのか。


Ж 昨年来、9・11以来、「テロ」は「悪」の同義語だ。
どんなにアメリカの横暴さを非難するものも、こう言ったものだ。
「勿論私はテロには反対なのですが」とか、「罪のない市民を巻き込むテロには反対なのですが」とか。平和主義者もこう言った。「抑圧された者や、貧しい者たちの抵抗する気持ちは分かるが、やっぱりテロは許されるものではない」
アメリカを支持するものは勿論、アメリカに批判的な論者もまた「テロ」=「悪」の構図を作り上げてしまったのだ。
どうして誰も「私はテロに賛成です」「罪のない市民を巻き込まざるを得ないテロリストの気持ちを理解します」とか、「抑圧された側の最後の抵抗手段としてのテロはあり得る」とか、もっと正直に言えば「私がテロに巻き込まれるのは避けたいが、テロを仕掛ける人間の気持ちは分かる」とか言えなかったのだろう。
少なくとも「抑圧」に対する抵抗手段、それが「テロ」であったとしても、それが「悪」とは言い切れない、という論評は極めて少なかったように思う。

 「暴力はいけない」という素朴な良心の桎梏が、良識者をして「テロ」=「悪」の構図を作り上げてしまった。この世は、あらゆる暴力に満ち溢れているのに、まるで暴力があってはならないかのように、国家の暴力を容認しつつ、抑圧される側の暴力を断罪することになった。暴力はないほうがいい。しかしこの世は暴力に満ち溢れている。世界は不平等に満ち溢れている。

 「無実の市民を巻き込む」のが「テロ」であるなら、アメリカもイスラエルの、その他の国家のすべての戦争は「テロ」と言えるだろう。ブッシュやシャロンは稀代のテロリストということになる。自分で手を下さないだけ、自爆しないだけ罪の深い大馬鹿野郎である。
はっきり言って死んでもらいたい。
はっきり言って私は「殺意」さえ抱く。
なんて奴が生きてるんだ。それも一国の大統領や首相として、と思う。こういうことを言うと怒られる。「人を殺したいなんて、なんてことを言うの、この人非人!」というわけだ。
「テロ」=「悪」の中には、「人を殺してはならない」という誰も否定できないであろう理屈が横たわっている。
確かにそうだろう。
だが、人間はおそらく誰でも「殺意」の一つや二つは持っているに違いない。


Ж 私は持っている。私の中にもテロリストは住んでいる。
そのテロリストは、見ず知らずの「罪のない市民」を時々「ぶっ殺してやりたい」と思っている。
満員電車の中で人の迷惑考えず、たいしたものも入っていない、でかく膨らんだリュックを背負い「ズンズカ」とウォークマンを聴いている「罪のない一般市民としての若造」を、私は何度も殺したくなったし、時々は「朝まで生で」したり顔で世の中を論評している太った知識人たちを、爆弾で皆殺しにしたいと思うこともあるし(しかしなぜ奴らは太っているのか)、新聞をにぎわす、井上や鈴木や加藤や青木といった「税金にたかるハエ」たちを抹殺したいと思うし(しかしまあなんと日本人を代表する苗字なのだろう)、これは本気で思っているので、右翼の方々には是非、憂国の魂を持って敢行していただきたいのだが、かくも私の中のテロリストは「殺意」を溜め込んでいるのである。
しかし私は、自爆テロリストになれない。こんな殺意じゃ「抑圧された者の正当性」も勝ち得ない。ただのオヤジの愚痴に近い。第一、死ぬ気がない。女々しくも生きていたい。

 しかし、私なんぞが想像もできない絶望の淵に立たされた者はどうだろう。
50年間以上も抑圧と占領の中で、人間の尊厳を奪われ、昨日も今日も、蔑まれ差別され、隣人が理由もなく罪に問われ、時に捕われ、時に殺される日常を送っている者はどうだろう。
自由と民主主義をうたう国際社会は何の手も差し伸べず、国連決議を無視し続ける国を許し、その横暴が見過ごされている現実の只中にいる者の絶望はどういうものだろう。
そこで直面した「自己の死」とはどんなものだろう。
「抵抗としての自殺」を選び取った者に「無実の市民の生命の尊さ」なんていうお題目が届くのだろうか。「人間の生命の尊さ」が通用するのは「生きていく社会」があってこそのことではないだろうか。その「生きていく社会」そのものが奪われた者にとって、または「生きていくことを放棄した」者にとって「生命」とは尊いものでもなんでもないのではないか。「生命とは陵辱されるもの」である現実を知ったからこそ、彼・彼女は「自爆テロリスト」になるのではないか。



「スロウトレイン」に掲載の記事・写真・カット等の無断転載を禁じます。© Works m bros.