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プロローグ「見ることよりほかに」
第1回 「平壌ドボン」
第2回 「パレスチナの青い空」
第3回 「哀しき熱帯」
第4回 「愛すべきならず者たち」
第5回 「平壌でボッタクリ-崩壊か開放か」
特別編 「水汲みロイちゃん〜アフガニスタン・カブール陥落に思う〜」
第7回 「誰も俺たちを撃たない」






2002.4.1 UPDATE



後藤和夫
text by Kazuo Goto





鈴木宗男は立派に政治家である
嘘つきこそ政治家の証しではないか


Ж 政治家という税金にたかるハエが、自分の選挙区に利益誘導するのは当たり前。
もう何度も見た光景だ。そのために官庁に入り込む、政官癒着の構図。
政治家という「生き方」が、権力を握り、税金の使い方を決める、それがなんだか立派な行為であるような社会通念が横行する限り、決して終わらない。
人から集めた金をどう使うかという仕事は、本来とても卑しく恥ずかしい仕事ではないか。
その恥ずかしい仕事をやる「必要悪」としての政治家が、この世でもっとも最低の人間の営為であるという常識が定着しない限り、このみっともない行為は決して終わることはないだろう。政治家になろうとする人は後を絶たない。

 その意味で鈴木宗男は立派に政治家である。嘘つきこそ政治家の証しではないか。政治家という存在が崇高で、それは地位があり、名誉があり、その功績が人々の役に立ち、国家や国益のために有益な仕事をする人であるであるという通念から人々が解放されない限り、こういう人間は後から後から出てきて、平気で嘘をつき続ける。

Ж 単純に言って私は思う。それが楽しいのですか? それが充実しているのですか?
 それが生きがいなのですか? それがあなたの幸せなのですか? と。

 そこそこの文明の発達に恵まれていて、食うのには困らず、取り立てて欲しいものもなく、あるのはこの満ち足りてはいるがなんとなく不幸な「日々の退屈」。
それが分かっているのに、まだ経済成長が必要だという、根拠のない強迫観念から、生産と消費を繰り返そうとする人間社会。それが「豊かな」人間社会を作るのだと信じて疑わない西欧文明の価値観。
その価値観がずっとある限り、人は、地位や名誉や、わずかな富に執着し続けるだろう。それしか幸福への道はないと半信半疑のままに自分をそこに従わせるだろう。
ならばと、その執着を最大限の偽善とともに発揮する政治家という輩もなくならないだろう。

 そうした生き方は、人間として本当に正しいのだろうか。
そうした生き方を自分に課すことに息苦しさを感じ、その社会通念に縛り付けられた自分が決して「豊か」だとは思えず、そこから自由になろうとする人たちがいる。
高度な文明社会に生きている自分が「まっとうではないのでは?」と疑問を持つ人たちがいる。世界にはもっと違う価値観があるのではないかと思う人たちがいる。
世界のどこかの違う価値観を持つ人々は、近代西欧文明が唯一正しいという世界観によって不当に傷つけられたり、迫害を受けたり、経済的に苦しめられたり、戦争や侵略や内戦によって、飢餓や恐怖や病に苦しんでいるのではないか、そう思う人がいる。
そしてその現実は、まぎれもなくこの地球上に存在する。
そちらのほうに身を寄せるほうが、この「まっとうではない世界」で生きるよりも「生きがいがある」と思う人がいる。
そういう人たちが、民間団体として、国益や国境や、主義や名誉や利益を越えて、「苦しんでいるなら助けてあげたい」というただ一点で、そちらのほうが自分の「生きがい」だと行動を起こす。
NGOとはそういう人々の「生き方」なのではないだろうか

Ж 「生き方としてのNGO」。
それはまず、自分のためなのである。この不平等で、理不尽で、富を幸福に置き換えた世界に違和感を覚える人々の「自分探し」だといえるだろう。
その「自分探し」が結果として人の役に立つのであって、まず「誰かを助けたい」があるのでないだろうと思う。「困っている人のために」は確かに美しいが、それはある時「国民の皆様のために」と同じように空虚に聞こえる。
「自分のため」でいいと思う。「自分探し」でいいと思う。
この世界の理不尽さに疑問を持って「自分探し」をした結果、それがこの理不尽さの犠牲となった人々との連帯を生む。
その行為の過程で、貧困や飢餓や病気や戦火に苦しむ人々を少しでも助けることに繋がる。
その時、それはWORKではなくMISSIONに似たものになる。
一市民としての、民間レベルの援助、すなわちNGOとなる。

 だから本来、NGOは政府と対立するものであるに違いない。
「国益」を重視して援助を含めた外交をする政府に対して、「国益」よりも「人間」を重視するのがNGOなのだから。

Ж アフガニスタンに対する援助活動をもう17年間も続けているNGO「ペシャワール会」。
中村哲医師の『医者井戸を掘る』は、そうしたNGO魂に満ち満ちた、苛烈にして痛快な報告だ。
内戦、旱魃、アメリカの攻撃。もうこれ以上破壊されようがないというまで破壊され、ただ生きていることさえも不可能な状況に追い詰められた人々を「病気は後で治せる。ともかく生きのびておれ!」と、世界のNGOが退却する中、「誰も行かぬなら我々が行く価値があろう」としゃにむに井戸を掘り、医療サービスを続ける。
400万人が飢餓線上にいる。その人たちを見殺しにするのか。
国連制裁に反対し、それを無知による国際社会の蛮行と断罪し、空爆に反対し、日本の自衛隊派遣は「有害無益」と切って捨て、国連やユニセフ、海外NGO の欺瞞を暴き、政府の指示で動くならもはやNGOはないと言い放ち、国会議員が持ってきた募金を「このような手垢のついた資金を受け取らぬのが我々の方針である」と突っ返す。
実に痛快。躍動感、気迫に満ち溢れたNGO魂が炸裂する。

 そしてなんとも愛すべきは、国際赤十字が連日ステーキとワインを楽しんでいる時、「飯と沢庵」で「今夜はご馳走」とはしゃぐことのできる「見せかけの豊かさ」とは無縁のメンバーたちだ。
タリバンだろうと、北部同盟だろうと、暫定政府だろうと、右だろうが左だろうが関係ない。単純にして実直な人道支援、孤立無援の壮絶な戦い。
中村医師は言う。「私たちの役得は復活した村々の人々と喜びをともにできることである」
ただそれだけ。地位も名誉も、まして富など関係ない。それが自分たちの喜びのすべてなのだ。
「生き方としてのNGO」本来の姿がここにある。

 しかし、この、世界でも唯一の、最後までアフガンに援助を続け今も続けている「ペシャワール会」は、今回の鈴木・真紀子騒動の発端となった『アフガン復興支援会議』には呼ばれなかった。
「一部NGOを排除」と問題視される以前からリストにも上がっていなかった。
なぜか? 

 実は、そもそも外務省はNGOを参加させる気はなかった。そこへ海外のNGOからクレームがついた。外務省はあわてて、日本のNGOを7団体選んだ。NGO同士が連絡をつけて、さらに問い合わせた。外務省はさらに7団体を加えた。
つまり鼻から外務省はNGOを無視するつもりだったのだ。だから本会議においてNGOの発言や意見を求められることもなかった。ただのお飾りだった。
これに関しての報道は余りなかった。「地道な活動をしてきたNGOが排除された」と
その裏側を取材もしないで同情して見せただけだった。

 では、復興会議に参加を許されたNGOとは一体なんだったのか。
鈴木宗男の圧力で参加を拒否されたJPF(ジャパン・プラットフォーム)とPWJ(ピースウインズ・ジャパン)とはどんなNGOだったのか。



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