TEXT BY 須永貴子
 『ジョゼと虎と魚たち』('03)を観るころまでだろうか。筆者は、知人の「犬童監督ってゲイらしいよ?」という発言(注:これはまったくのガセ)を聞いて、妙にしっくりするものを感じてしまった。セクシャリティを前提に作品を判断するのは非常にイージーなことなので、そこにとらわれないようにしなくてはいけないのは重々承知だけれど、その発言には妙に説得力があったのである。もしもガセと知らされていなかったら、『メゾン・ド・ヒミコ』('05)がゲイの老人ホームを舞台にしていると聞いた時点で、さらにその思い(込み)を強固にしていたに違いない。

 犬童監督は、とても女のコを描くことに長けている。彼の作品には、10〜20代前半の女性が主人公として多く登場するが、そこには「女のコを描くのがうまい監督」にありがちな、大人の男性からの性的な視線がまったくない。女のコに夢とかファンタジーを抱いていないし、むしろ、女のコのキャラクターの描き方がとても厳しい。たとえば、『金髪の草原』('99)のなりすは80歳の老人に思いを寄せられるが、そんなの、いい迷惑だ。『ジョゼ虎』のジョゼは、脚が不自由で歩けない。しかも、移動は乳母車。『メゾン・ド・ヒミコ』の沙織は、外見以上に内面がめっぽうブス。映画史上に残るブスっぷりだ。そういった設定もさることながら、彼女たちが物語のなかで経験するできごとは、じつはけっこう苛酷である。

 その苛酷なできごとをもたらすのは、男たち。なのに、男性キャラクターの描き方は、ひじょ〜に甘い。なりすに恋をする老人・日暮里、ジョゼと恋に落ちる大学生の恒夫、沙織と恋をしようとするゲイの春彦は、一様に自分から恋をしかけて、彼女たちを振り回して、その恋から逃げだす。もちろん彼らは自分に落ち度があるのはわかっているからこそ、なおさらその苦悶する姿には、男女問わず同情してしまうメカニズムがある。男は「男ってこうだからさぁ」という免罪符を与えられ、女は「男ってしょうがないわねぇ」と母性本能を刺激される。もちろん、伊勢谷友介、妻夫木聡、オダギリジョーと、男優がみな美男子という表層的な装置もナイスアシストなのだが。

 男女のこういった描き方の差に、「ゲイって女に厳しいもんね」という通説が、しっくりときてしまったのかもしれない。けれど、よくよく考えてみると、犬童監督は暗に女性の強さのようなものを表現しているわけで、ダメな男と、強く生きる女の関係を、対比しながら、独自のスタンスで描いているといえる。さらにさかのぼると、美術予備校生・ユミ(演じる西岡由美子がブスかわいい!)が主人公の『何もかも百回も言われたこと』('97)も、解散の危機に瀕した女漫才コンビが主人公の『二人が喋ってる。』('97)も、何があろうとも結局は突き進んでいく女性が描かれていた。    作品のキャラクターだけでなく、その物語の作り手としても、犬童監督にとって女性の存在は大きい。原作でいうと、『金髪の草原』は、大島弓子の同名マンガ。『ジョゼ虎』は田辺聖子の同名小説。また、『ジョゼ虎』『メゾン・ド・ヒミコ』で共同脚本を手掛ける渡辺あや。彼女たちに共通するのは、リアルではない設定の中に、説得力のある物語を描くところ。

 犬童監督はインタビューで、芸人やゲイといった、「自ら境界線を超えた人たち」に興味をそそられるし、尊敬とあこがれがある、とよく発言している。それが、『二人が喋ってる。』や脚本を手掛けた『大阪物語』('99)、そして『メゾン・ド・ヒミコ』を作った理由であると。

 大島弓子や田辺聖子、渡辺あやが描く世界も、ある種、境界線の向こう側の物語。そんな世界を描きだす女性作家たちに対しても、犬童監督は尊敬とあこがれがあるのかもしれない。ゲイ、芸人、乙女的なもの、少女マンガ的なものといった、境界線の向こう側の世界を愛しつつ、けっしてそこに巻き込まれず、媚びず、独自の視点で作品へと消化する。それができる監督は、今、犬童監督しかいない。


 オダギリジョー&柴咲コウ&田中泯が共演したヒューマンドラマ。ゲイである父親を嫌う娘、末期ガンで余命わずかな父親とその恋人の美青年。ゲイ専門の老人ホームを舞台に、さまざまな思いを抱えるこの3人の関係を通して、人間の生と死、愛と絆を浮き彫りに。老人ホームで暮らすゲイたちも愛嬌たっぷりで、心癒される。(アスミック・エース配給)

(C)2005「メゾン・ド・ヒミコ」製作委員会
 
 TVアニメとしても人気を誇ったあだち充の名作コミックを実写映画化。甲子園を目指す双子の兄弟・達也と和也、幼なじみの南が織り成す恋の三角関係をつづった青春映画。原作の世界観はそのままに、長澤まさみ、斉藤翔太&慶太がみずみずしく好演。“これぞ青春!”といった甘酸っぱいエピソードが満載で、さわやかな感動を呼ぶ。(東宝配給)

(C)2005「タッチ」製作委員会