石井聰亙の変遷は興味深い。個々の作品よりも、俯瞰したフィルモグラフィーから語りたくなる作家なのだ。自主映画の雄としてデビューし、80年代半ばを境に日本映画界での居場所を失い、90年代に復活したときには、それまでの外へ向かって暴発するパワーが内側へと向い、精神世界へ下りて行った。
そしてこの満を持して仕上げたスピリチュアルなサイバーアクション時代劇。それはまさに、これまでの動と静を統合させた壮大なプライベート・フィルムといってもいいほどに石井テイストで埋め尽くされた。誰もが心に抱える鬼、すなわち狂気を斬らねばならないというテーマは、かつての石井映画からの脱却であり、10代が抱えるいまどきの問題でもある。
ハードかつ繊細なテーマを活劇に変換させるために揃えた役者、美術、衣裳、殺陣、特撮はすべてOK。が、あくまでもそれは娯楽を盛り立てる表層世界。お告げを聞いて「戦い」に駆り立てられる鬼の衝動と、被写体を追ってめまぐるしく動き回るカメラワーク。それは観る者を置き去りにして突っ走って行く。
かといって『グラディエーター』のように、家族の復讐という動機づけが「戦い」を正当化させ、感情移入を容易にさせるようなオーソドックスな物語では作品の主旨からそれる。もしやこれは内面の狂気へのバロメーター? 狂気を抑えねば、と自覚する者は音楽的ともいえる映像の流れとともにトリップすることができるのか。しかし乗れない者がいる限り、そのジレンマにはハリウッド的論理構造がなくとも娯楽活劇は可能か、という命題を改めて考えさせられる。 |
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