その朝、ホテルのベッドで強烈な痛みを感じた。
それで目が覚めた。
気づいたら、左足に大きな傷がある。
足のつけ根からくる節まで、赤い線が走る。
かつて女はそんなストッキングをはいた。
後にくっきり線のある絹のストッキング。
それは足を保護したが、傷は足に痛みをもたらす。
いつ、そんな傷ができたのか分からない。
きのうまで、なかったはずだ。
今は痛くて、歩けない。
ホテルに常勤するジーン・ハックマン医師に相談した。
「最近、何かありましたか?」
医師にそう尋ねられ、1週間の出来事を反芻する。
いつも通り、レイン・シティを歩いただけだ。
これまで会ったことのある人々とすれ違った。
エドワード・ノートン、ダイアナ・クラール、ジョニー・リー・ミラー。
みんなと軽く会釈をかわした。
ニコール・キッドマンに似た女性ともすれ違ったが、
その女性は知らぬ顔で通りすぎた。
私が、知っているニコールではなく、別のニコールなのだろう。
そして、ひとりの見知らぬ男に出会った。
どこか疲れ、寂しそうだが、目の中に不思議な光が見えた。
すれ違った時、目にひきつけられた。
彼を見て、体中に不思議な感情が広がった。
翌日になっても、その目が、妙に忘れられず、
彼は夢の中にも出てきた。
そして、今朝、目覚めたら、左足の後部にまっ赤な傷が走っている。
話を聞いたハックマン医師は言った。
「一度、街を出たらどうだろう?」
彼はフォッグ・シティにある医者への紹介状を書いた。
「彼なら、直せるだろう」
ハックマン医師に松葉杖を貸り、診察台を立つことができた。
ホテルの部屋に戻り、荷作りを始めた。
善は急げ。明日、旅立つことにしよう。
その夜、また、あの男を見た。
色白で細身だった。
この日、彼は黒いズボンの裾を少しまくってみせた。
「ここに大きな傷があるんです」
まっ赤な傷が右足の後部を走っていた。
とても直視する勇気はない。
彼は優しくほほえむ。目の光が忘れられない。
気づくと、全身に汗をかいていた。
目の前には白い天井。男は夢だった。
翌朝、まだ薄暗いうちに、ホワイト・ホテルを出る。
レイン・シティでの6か月。
去りがたい感情もこみあげたが、早く傷を直したい。
車の鍵を入れ、アクセルを踏む。
もやに包まれた街へ車はすべり出す。
走ること2時間。
遂にレイン・シティを離れ、フォッグ・シティに到着した。
その街にはグレイ・ホテルがある。
杖に支えられながら、予約した部屋に入る。
灰色の壁で統一されている。
荷物を出して、さっそく病院に向かう。
車で10分ほどのところにある。
病院に入っても、誰の姿もない。
ここもホテル同様、灰色の壁だ。
廊下にあったマイクロ・フォンのボタンを押すと、
男の声が聞こえ、病室のベッドで待つよう指示があった。
黒いロング・スカートをたくし上げ、左足の長い傷口を見る。
痛みは、まだ、消えない。
その時、白衣姿の医師が現れた。
彼の顔に見覚えがあった。
目を見て、すぐ分かった。夢で会ったあの男だ。
細身で、色白。優しそうな、悲しそうな顔をしている。
「ひどい傷なんです」
そう言うと、彼は笑う。
彼の黒いズボンの裾から、赤い傷が見えた。
そう、彼の右足にも傷があるはずだ。それも夢で見た通りだ。
「傷口を見ますよ」
痛みがますますひどくなる。彼はスカートを少しずつ動かす。
「そっと目を閉じて」
気づくと、白衣を着ているのは自分で、男の方がベッドに横たわっていた。
「ひどい傷なんです」
今度は男がそう言う。
最初は正視できなかったのに、白衣を着ると、義務感から勇気が出た。
男の足を見ていた。
「そっと目を閉じて」
職業的なセリフをはき、彼のズボンを動かし、
傷口を、遂に直視する。
足のつけ根からくる節まで、赤い線が走っている。
自分の傷口にそっくりだった。
彼のは右側に、自分のは左側に。
「でも、傷のない足がもう一本づつあるから、
ふたり分を合わせれば歩けます」
その声で目を開ける。
患者は再び患者に戻り、医師は医師に戻っていた。
と、その時、傷が消えていることに気づいた。
「私のも消えました。ふたつの傷が互いを消しあった」
しかし、痛みは残っている。
「痛みがどこまで続くか、誰にも分からない。
でも、一緒に歩きましょう。
私の傷を消すために、あなたが必要だった。
ハックマン医師は、それを知っていたんです。
そんな傷を持つ人、あまりいませんから」
彼が差し出した手をとり、診察室の外に出る。
どこまでも霧がかかり、何も見えない。
ここはフォッグ・シティ。
傷は消えたが、痛みはそのままだ。
でも、同じ症状の男が、不思議な安堵感をあたえる。
「ええ、私にも、心地いいです」
何も言わないのに、彼はこちらの気持ちを読む。
「ふたつの傷を通じて、奇妙な回路ができたんです」
霧、また、霧。
やがて、霧の向こうに、かすかなオレンジ色が見えた。
「他の街では、あれは“光”と呼ばれています。
でも、ここではそれさえも、はっきり見えない。
輪郭がうっすら見えるだけです。
でも、いい兆候です」
オレンジ色のライトらしきものが、一瞬、キラリと通りすぎる。
何もかもぼやけているが、雨の街と違って、傘は必要ない。
「慣れると、ここも捨てたもんじゃない。
グレーの街もいいもんです」
その声が、さらに安らかな響きを残す。
痛みさえも、やがて、あいまいさに包まれるかもしれない。
グレーの住人となり、いつまでも霧の中を歩いていた。
――終――
