街のまん中にはジャズ・クラブ“レイン”がある。
そこで、今夜、歌を聞かせてくれるのはエルヴィス・コステロだ。
かつてはパワフルなロックが得意だったが、最近はじっくりとラブ・ソングを歌う。
特に得意なのは失恋の歌。
クラブに入ると、リハーサル中だった。
古ぼけた茶色の木の壁が落ちついた印象を残す建物だ。
ステージの向こうには青いベルベットの幕がひいてある。
その前のステージはやや小ぶりで、
それに合わせて小型のグランド・ピアノがおいてある。
弾いているのは、コステロのおかかえピアニスト、スティーヴ・ナイーヴだ。
不精髭をのばし、メガネをかけ、黒いシルクハットをかぶって歌うのはコステロ。
どこかとぼけた優しさを持った男だが、ナイーヴの方はとても神経質な芸術家タイプだ。
肩をやや前屈みにして、片時もピアノから離れたくないようだ。
リハーサルでコステロが、ありったけの思いを込めて歌っているのは、
『ペインテッド・フロム・メモリー』。
昔の思い出をやや低いトーンのかすれた声で切々と綴る。
そして、コステロがグランドピアノに手をかけると、
ナイーヴはにらむような顔で彼を見る。
不思議なことにそのピアノのボディには奇妙な色がミックスされている。
全体の色は人肌を思わせ、ふたの上には髪の毛のように細かい線がいくつも入ってる。
「スティーヴとは昔から組んでいる。別れた時期もあったが、
やっぱり、彼とは離れられない」
歌い終わった後、頭にかぶった黒い帽子をとり、額の汗をタオルでふくコステロ。
彼は黒いスーツをルーズに着こなしているが、同じ黒のスーツ姿とはいえ、
ナイーヴはきちんとネクタイをしている。
とても無口な男で、奥の楽屋へ何も言わずに消えた。
「悪気はないが、ああいう男なんだ。でも、無理もない。いけないのは僕だ」
ピアノの前に立ち、そのボディをじっと見直す。
やっぱり変わった色だ。
木製のピアノはあるが、肌色のピアノというのは珍しい。
「変な色だろ? もとは人間だったんだ」
人間? まさか?
「若い頃、僕はマジシャンでね。人間をいろいろなものに変える修行を積んだ。
椅子、テーブル、傘立て。いつも元通りの姿に戻せた。でも、ある女をピアノに変えたら、
ピアノになって、もとに戻せない。帽子の振り方を間違えたらしい」
コステロはじっとシルクハットを見つめる。
「彼女はアリソンという名前で、バンドのコーラスだった。愛していたが、人妻でね。
でも、僕の部屋にも来てくれた。黒髪が美しく、肌がすけるほど白い。
服を脱いで眠った女をピアノに変えたら、こんなことに。夫に殴られたよ。ほら?」
メガネをはずすと、右目の下を縫った古傷がまだ残っている。
「でも、その夫にできるのは、妻のボディを弾くことだけ。私は歌い続けるだけ」
楽屋の奥からスティーヴが戻ってきて、再び、ピアノの前に腰を降ろす。
リハーサルの再開だ。苦い恋の思い出を歌うコステロ。胸の裏側までしみ通る歌声。
熱唱のあまり肌色のピアノに肘をつけると、鍵盤の前のスティーヴが厳しい視線を彼に
送りつける。それに気づいて、あわててピアノから手を離すコステロ。
時おり、女のやけになまめかしい声が聞こえる。
いや、でも、それは錯覚なのだろう。
目の前ではスティーヴが高音部のなめらかなキーを、そっと指先ではじいているだけだ。
