その夜は、あいにくのどしゃぶりだった。
マットとの深夜の約束をはたすため、ホテルの前からタクシーに乗ると、
クラブ・レインの裏口に着いた。
時計を見ると、4時5分前。
重い鉄のドアをあけ、中に入ると、薄暗がりの中に男がたっていた。
心臓の鼓動が早くなる。
「ピアノはこっちにある。先にどうぞ」
マットより先に歩くことに、一抹の不安を覚えた。
もし、殺意があれば、簡単に後ろから殺せるはずだ。
しかし、今は彼を信じるしかない。
暗い廊下を進むたびに鼓動が早くなる。
ふたりの足音が人けのないクラブに静かに伝わっていく。
無事に廊下をすりぬけ、ピアノのあるステージまで来ると、彼は照明をつけた。
生徒を椅子にすわらせ、後ろでピアノを弾くところを見るつもりだ。
再び鼓動が早くなるのが、分かった。
彼が後ろにいる。
たった、それだけのことが、こんなに怖かったことはない。
なんだか、手が震えて、ピアノもうまく弾けない。
鍵盤にかけられた指の力が、いつもより弱いのが分かった。
その時、首すじに男の手が近づく気配を感じ、背筋が凍りつく。
一瞬、覚悟を決めるが、その手は、肩をポンとたたいただけで離れた。
「あのニュース、信じるの?
自分が誰だか、はっきり思い出せないけど、
もし僕が人殺しでも、命の恩人だけは殺さないよ」
マットの目にやさしさが広がっている。
今はそれを信じるしかない。
曲の最後の小節を、とにかく、マスターするしかないのだ。
気をとり直し、指に力をこめる。
そして、最後のリフレインまでたどりつく。
「よし、完璧」
彼は再び肩をポンとたたき、今度は自分がピアノの中央にすわった。
ゆっくり呼吸した後、白い鍵盤が紡いでみせたのは
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』。
雨の夜に聞くその曲は、いつもより、さらにブルーなブルースだ。
誰もいないクラブの湿った闇に、その音が少しづつ溶けていく。
「もう、行かなくちゃ」
ピアノの横にあったトランクを持ち、彼は裏口に向かった。
「いろいろ、ありがとう。バラが似合わないって言った男のこと、思い出したよ。
僕は孤児院で育った。そこで一緒だった悪友に言われた。
顔の輪郭が似ていて、時々、兄弟に間違えられた。
そういえば、孤児院の隣に教会があって、そこでピアノを習った気がする」
やわらかな光が彼の目に宿り、いつもはごつごつしたその顔が、
一瞬だけ、美しく見えた。
パブで演奏を初めて見せてくれた朝のことを思い出した。
裏口のドアを開けると、激しい雨が地面をたたきつけている。
フードつきの黒いコートを着た男は、その中に迷わず踏み出す。
その頼りなげな影は、やがて、雨の束の向こうに少しづつかき消されていった。
クラブでタクシーを呼び、ホワイト・ホテルに戻ると、フロントは大変な騒ぎだった。
「どうしたの?」
「殺人犯がつかまったんです」
フロントにあるテレビには、殺人犯の写真が写っていた。
その顔の下にはジミー大西という文字が見えた。
解説の男がゆっくりナレーションを続ける。
「ジミーは無罪を主張していますが、警察では彼の犯行と見ています」
ジミーの顔の輪郭は、確かにマットに似ていたが、それ以外のところはまるで違う。
もう少しこのニュースが早く分かれば、マットはこの街を出ずにすんだのだろうか。
でも、旅人はいずれ街を出ていく。
それが早いか、遅いかの違いしかない。
部屋に戻ってベッドに横たわると、いつの間にか眠っていた。
朝日で目覚めると、もう午前7時だ。
その日はきのうの雨が嘘のように、空が晴れ渡っている。
レイン・シティが晴れるのは、本当に珍しい。
顔を洗い、紅茶を飲むと、むしょうにピアノが弾きたくなった。
パブに行くしかない。
部屋を出ようとした時、ドアの前に細長い箱が見えた。
フロントから届いた贈り物で、中には一輪の白バラが入っていた。
贈り主が誰かは、もちろん、すぐに分かった。
パブのグランド・ピアノにも、朝日が注ぎこんでいた。
青年は去り、日常の一部となっていたピアノを、もう聞くことができない。
バラをピアノの上に置くと、その反映がつややかな黒い蓋の上に写り、
まるで2つの白い生き物が息をしているようだ。
ピアノの前で呼吸を整え、足で右側のペダルをぐっと踏む。
最初の音がパブに響き始める。
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』。
残されたのは音の記憶だけだ。
指にすりこまれた音譜をたよりに、見知らぬ旅人との不思議な時のかけらを集め直す。
そして、いよいよ、何時間か前に覚えたばかりの小節に入る。
再びペダルを踏み込み、最後のキーの上で指をとめた。
朝日の中で弾くには悲しすぎる曲だったが、とにかく、最後までひくことができた。
それは消えた時間の形見だ。
ピアノから立ち上がり、白バラをすくい上げると、
指先に一瞬、鋭い感覚が走り、花びらの上に一滴の赤い血が落ちた。
「痛みを知るまで、本当の愛は分からない」
旅人が愛した曲の歌詞が、静かによみがえってきた。
