しばらく、記憶喪失だったマット・デイモンと名乗る男は、
結局、名前以外のことは今も思い出せなかった。
どこに住み、何をしていたのか。
ただ、ピアノの前にすわると、バッハのプレリュードやフーガを見事に弾きこなす。
そして、ただ一曲だけ知っているジャズのレパートリーは
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』だけ。
痛みを知るまで、本当の愛は分からない。
そんな歌詞のブルースを彼は見事にプレイする。
今では、毎朝、パブのピアノを弾くのが彼の日課になっていた。
2時間近くバッハを弾き、最後は
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』でしめる。
その朝の演奏はホテルの従業員やお客たちを引きつけ、
遂にはレイン・シティのジャズ・クラブ、レイン・クラブのオーナーまで聞きに来た。
レイン・クラブではジャズ系のミュージシャンしか演奏しないが、
オーナーは特別、彼を出演させる決心を固めた。
彼にいわせれば、マットのバッハには、
とてもジャズのアドリブ感覚が入っているという。
ジャズ・ピアニストの第一人者キース・ジャレットも
バッハ・アルバムを出しているのだから、
マットの演奏もきっとジャズ・ファンに受けるはずだ。
オーナーはそう確信していた。
「これでホテル代が返せるし、クラブの部屋にも泊めてもらえる」
報告に来たマットは、妙にうれしそうだった。
彼はホテルからクラブの2階の部屋に移り、ピアニストとして働き始めた。
しかし、宿泊先を変えてからも、毎朝、パブでピアノの練習は続けていた。
その時、ハックマン医師も様子を見にくる。
記憶の一部が回復したとはいえ、彼の体調は完璧ではなかったからだ。
腕には注射針がさされ、マットの腕はピクリと反応する。
ひと筋の赤い血が流れるが、それは命の証しでもあった。
初めてレイン・クラブで、マットが演奏する夜がやってきた。
場内はほぼ満席で、客席にはエドワード・ノートンの姿もあった。
マットの弾くバッハは、
とても現代的でオーナーの読みが正しかったことが証明された。
そして、アンコールではただひとつのジャズ・レパートリー、
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』を弾いてみせる。
物悲しく、胸にしみるブルース。
これが、また、客たちを喜ばせた。
ライブの後、マットにプレゼントの花束をさし出した。
柔らかな素材の白いポロシャツを着た彼は、
いつもより、優しい顔に見えた。
その目にナイーブな光が宿っている。
花を受け取った彼は照れ笑いを見せた。
「この僕に白いバラ? 昔、言われたことがある。
バラほどお前に似合わない花はない。もっとイイ男でなきゃいけないって。
われながら、バラって柄じゃない」
昔、言われた?
その言葉に、一瞬、たじろぐ。彼は記憶喪失ではなかったのか。
「誰が言ったの?」
マットの顔に広がった青空は、すぐに曇り空になる。
「思い出せない……」
そして、言葉をはぐらかすかのように、
青年は次の瞬間、奇声を上げた。
バラには刺があるものだ。
まっ白な花びらに小さな赤い斑点が散った。
「痛みを知るまで、本当の愛は分からない。あの曲が好きなんだ」
血を見ながら、彼は静かに笑った。
クラブでのマットの演奏は、毎日、大変な人気を呼んだ。
そして、今でも毎朝、ホテルのパブのピアノを練習しにくる。
最後に弾く曲は『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』。
いつ聞いても胸にしみるブルースだ。
ある朝、思い切って、彼に頼みごとを切り出した。
『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』を教えてほしい、と。
昔、ピアノを弾いていたことがあった。
長年、鍵盤から遠ざかっていたが、男が奏でる音のせいか、
胸の中で何かがゆっくり動き始めていた。
「少しづつなら、覚えられるよ」
彼は最初の5小節を弾いてみせた。
右と左のパートを別々にして、後で音を合わせてみせる。
いきなり永遠の眠りをさまされ、どこかぎこちなかった指だが、
やがては少しづつ、自分の意思を持ち始める。
こうして、4本の手による朝のウォーキングが始まった。
重かった歩きも、少しづつ、軽い足取りになっていく。
それにしても、どこでその見事なテクニックを身につけたのだろう。
昔の話をすると、彼の顔はいつも、あいまいさで曇る。
「はっきり思い出せない。
ただ、キャンドルがある場所で、弾いていたような。
黒い服を来た男がいて」
「教会かしら?」
「そうかもしれない」
「だから、バッハを弾くのよ」
マットの顔が、相変わらず、曇り空だった。
レッスンが始まって2週間がすぎ、いよいよ、最後の部分が残った。
その日、マットと別れた後、朝刊をフロントで受け取ると、大きな見出しが目をひく。
<レッド・シティで起きた殺人事件の犯人。隣町レイン・シティに潜伏か?>
犯人らしき男の写真が載っていたが、それを見て、思わず悪寒が走った。
これは、マットではないか。
しかし、ごつごつした顔の輪郭は似ているものの、目鼻だちがよく分からない。
なんだか、ピンぼけ気味の写真だった。
ショックを受けながら部屋に戻ると、マットから電話がかかってきた。
「新聞見た? 僕はどうやら殺人犯だったらしい。この街を出ることにしたよ。
よかったら、あの曲の最後の小節をクラブで教えてあげよう。
今夜4時に来てほしい」
午前4時の殺人者の招待。
しかし、ノーということは、どうしてもできなかった。(つづく)
