それはある激しい雨の夜だった。
ジャズ・クラブへダイアナ女医の歌を聞きに出かけた帰りのこと(注:9話)。
道路に激しく打ちつける雨の束の向こうに、不吉な影を発見した。
クラブの横にある小さな路地で、
最初、それは何か、黒い固まりのように見えた。
誰かが忘れた靴がそこにあるようだ。
そのまま、無視することもできたが、その時、不思議な光景を見た。
うち捨てられた靴が、ピクリと動いたのだ。
目の錯覚だろうか。
靴にもっと近寄ってみる。
ビルの端の方にころがっていた茶色の靴。
それはうち捨てられていたわけではなく、持ち主がいた。
その人物が生きているかどうか心配で、そっと靴の裏を傘の先端で突っつく。
再び、ピクリと靴が呼吸する。
生きているようだ。
薄暗がりに倒れた生き物。
助けが必要だ。
どしゃぶりの夜に、はたしてつかまるかどうか心配だったが、
あわてて大通りに視線を戻す。
タクシーをつかまえるためだ。
車は何台も通りすぎていくが、乗車中のブルーのサインがついたものばかりだ。
靴の生き物が心配で視線を移す。再び傘の先で動きを確認する。
ピクリと呼吸する。
しかし、こんなどしゃぶりの夜にほおっておけば、肺炎になってしまう。
一刻も早くタクシーをつかまえなくてはいけない。
ブルー、ブルー、ブルー。
タクシーのサインはどどこまでもブルー。
赤がくれば生の光、青が続けば死の闇。
雨の轟音がさらに強まり、泣きたい気分になってきた。
レイン・シティの雨がこれほど残酷に思えた夜はなかった。
雨の束には、今や、ほとんど隙間がない。傘をさしていても、ズブ濡れだ。
白のワンピースが体にピタリとついて離れない。
もう、ランプの色さえ、見分けがつかなくなってきた。
とにかく、左手を上げ続ける。
雨か涙か分からない水滴が、頬をぬらす。
その向こうに、かすかな光がさした。
目の前にレッド・ランプの車がいたのだ。
事態の異様さに気づいた運転手は、あわてて中から出てきた。
彼は靴の生き物を発見して、かけ寄った。
運転手と一緒にそれを抱き上げ、車の中に運ぶ。
どうやら、男だ。
滞在先のホワイト・ホテルを指示した。
頬を水滴が伝わる。その雨は生温かく、車の中で大降りとなった。
ホワイト・ホテルの部屋に男を運んでもらい、すぐに医者を呼んだ。
ホテルにはジーン・ハックマンという専門のドクターがいた。
運転手と入れ代わりに、ドクターがやってきた。
ベッドでうつぶせのままになっている男を起こし、助手と一緒に服をぬがせた。
聴診器で様子を探った後、ホテルのパジャマを着せる。
「肺炎ではないね。大丈夫だ」
ドクターはそう言って、注射器を取り出し、男の腕にさした。
ピクリと男の体が反応し、腕にひとすじの血が流れる。
傘の先ではなく、針で、今度は男の命が確認される。
「衰弱はしているが、このまま寝てれば、大丈夫だろう」
その時、初めて男の顔を見た。まだ、青年っぽさが残っていた。
ごつごつしたかんじで、頬が張っている。
髪は栗色。中肉中背の体つきだ。
特に印象的な顔ではないし、かなり、やつれている。
でも、その見知らぬ男の体内に、レッド・ライトがともったことに感謝したくなった。
生温かい雨が、再び頬を伝わる。
男は3日目にめざめた。
「あの……」
その声で、ある朝、目覚めた。
低く、はりのある声が、ソファで見ていた夢の中に飛び込んできた。
「ちょっと……」
男にベッドを占領され、ソファで寝る日が続いていた。
「ここ、どこです?」
初めて男を生きた現実として認知した。
道で倒れ、3日間、眠ったことを説明した。
彼の顔は少しだけ優しさを取り戻す。
ごつごつしていて、やはり、美しさとはほど遠い顔だった。
「あなたは道で倒れていた。これ、よかったら、書いて」
男に一枚の紙を差し出す。
「あなたの名前と住所」
その時、男の顔にともったレッド・ライトが再びブルーに戻る。
「名前……」
青年は、自分が誰だか、思い出せなかった。
とんでもない荷物をかかえてしまったのだろうか。
旅行者の身で、みず知らずの男の面倒をみている。
思えば愚かなことをしているのかもしれない。
しかし、雨の夜、選択の余地などなかった。
ドクターは、しばらく、彼をとどめようと提案した。
記憶がないのだから、そうするしか仕方がない。
物置に利用していた部屋を、しばらく、寝室に変え、
簡易ベッドを用意してもらった。
それから、さらに3日が過ぎた。
早朝、簡易ベッドで目覚めると、男の姿が消えている。
どこかに行ってしまったのだろうか。
あわててホテル中を探す。メイン・ロビー、電話室、球技室。
しかし、姿がない。
と、その時、パブの方からピアノの音が聞こえてきた。
朝日がさすパブには、誰もいないはずだ。
それなのに、ピアノだけが響く。
それはバッハの幻想プレリュードだ。
大きく黒いグランド・ピアノの向こうにいたのは、青年だった。
しばし、その美しい音のうねりに魅せられる。
物悲しい響き。左右の音階が交錯しながら、下がっていく。
彼は、すっかり音の世界の中にいた。
曲が終わり、人の気配に気づく。
「なんだか、たまらなく弾きたくなって」
次に彼が弾いてみせたのは、『ユー・ドント・ノー・ホワット・ラブ・イズ』。
物悲しいブルースだ。
<痛みを知るまで、本当の愛は分からない>
そんな歌詞の歌だった。
ごつごつした青年の顔が、いつもと違って見えた。
彼の目に、その時、悲しく、優しい光が宿った。
曲を弾きおえた後、彼はこちらを見た。
その顔は美しかった。しかし、それはほんの一瞬だけ。
ピアノを弾きおえた後は、また、いつものごつごつした顔に戻る。
立ち上がって、彼は言った。
「名前は……マット・デイモンだ」 (つづく)
