レイン・シティにジョニ・ミッチェルがいることを教えてくれたのは、
あるタクシーの運転手だ。
車内ではジョニのアルバム『ミンガス』が流れていた。
「彼女、別のところに住んでいるが、
この街のカフェに時々、来るそうだ」
その店の地図をもらい、場所を探す。
それは中心街のはずれの方にあった。
白い木造の建物で、表の壁に古い時計がかかっている。
ドアの上には”L・O・V・E・S・I・C・K”の文字がある。
ラブシック。恋の病。
なるほど、ジョニにふさわしい店だ。
薄暗い店内で流れているのは、
どこかで聞き覚えのあるスタンダード曲だ。
もう恋はやめよう
そう、思っていたのに、
心が乱れる
あなたと目があうたびに
その声は確かにジョニの声だ。
体の奥深く入り込み、心を刺し続ける。
恋の始まりを歌っているはずなのに、
どうして、こんなにも悲しいのだろう。
ジョニ・ミッチェルの声が聞こえる。
「始まりがあるものには、すべて終わりがある。
それが1年後か、30年後か、それは分からない。
ずうっと一緒でもどちらかが先に死ぬ。一度は愛の病に悩むのよ」
声は語りかける。
でも、いったいどこから。
暗闇の奥で赤い液体を入れたグラスがキラリと光る。
ブラッディ・メリーだろうか。
目をこらすと、それは現実の液体ではなく、
絵だった。
人間と同じくらい大きい。
そして、そのグラスに手をのばしている女性はジョニ・ミッチェル。
もちろん、ジョニ自身も絵だ。
金髪のロングヘアー。
印象的なつき出た頬骨は昔と変わらない。
エメラルド・グリーンの光沢のあるドレスが
赤いアルコールとうまく調和している。
「ラブシックには、お酒が一番ね。
とりあえず、現実を溶かすことができる。
時には体まで溶ける。
飲みすぎで、内臓に穴があく人もいるけど、
それはお酒の力のせい。
どのみち、最後は体が暗闇で溶ける。
死という暗闇に」
闇の向こうにいるジョニ。
知的で、クール、それでいて情熱的。
恋のさすらい人だった彼女は、
年下の夫と結婚したが、ちょっと前に別れたばかり。
「また、恋がしたい? そうね、ドアを入るのは楽。
でも、出るには何倍ものエネルギーがいる。
だんだん恋に臆病になるのは、そのせいね」
もう恋はやめよう
そう、思っていたのに、
心が乱れる
あなたと目があうたびに
再び、歌が聞こえる。バーの中にはぼんやり人の顔が見える。
グラハム・ナッシュ、ニール・ヤング、
ジョン・グエリン、ラリー・クライン……。
店にいたのは、ジョニがかつて愛した男たちだ。
彼女は絵になって、男たちを見つめていた。
酒場を出た後、ホテルに戻る。
寝る前にルームサービスで、ブラッディ・メリーを注文した。
なんだか、やりきれなさがまとわりついて離れない。
それはこの赤い液体で溶かしてしまおう。
翌朝、ドアの前に小さな荷物が置かれていた。
それはジョニからの贈り物だ。
出てきたのは1冊の短編集。
バラード・オブ・ザ・サッド・カフェ。
悲しき酒場のバラード。
カーソン・マッカラーズの小説だ。
エドワード・ホッパーの『午前7時』という絵が表紙にある。
白い木造の建物で、壁に古い時計がかかる。
きのう訪ねた酒場にそっくりだ。
そして、ジョニ自身の絵にも似ていた。
最初のページをめくる。
「荒涼として、寂しげで、そこは世界中から遠く離れ、
どこまでも孤立した場所だった」
ジョニが、昨夜いたのは、そんなカフェ。
愛の亡霊たちが住む店だ。
