多忙すぎた月が終わり、最近、体から疲れが抜けない。
知人に相談したら、ある病院を勧められた。
「ドクター・クローネンバーグの診察室がいいらしいよ」
以前は映画監督だったが、今は医者となり、クリニックを開いている。
専門は産婦人科らしいが、最近は内科に切りかえたという。
怪しげだが、好奇心もあり、行ってみることにした。
目立たない小さなビルの1階。
病院の待合室には他の患者の姿はなく、看護婦さえもいない。
カルテを持ったドクターに名前を呼ばれ、診察室に入った。
壁はすべてシルバーのステンレス製で、天井を見ると、
患者と医者の姿が歪んだ形で写っている。
ドクター・クローネンバーグは知的で物腰のやわらかな紳士風の男だった。
ソフトでゆったりした声が、とても心地よく響く。
ドクターは珍しい耳型の聴診器を取り出す。
「普通は胸部を診察しますが、この聴診器は違います。後を向いて下さい」
首すじにヒンヤリ、冷たい感触だ。
聴診器は首の骨のつき出た部分にあてられた。
ドクターはその骨に手をあて、様子をみる。
「分かりました。クスリを出します。就寝前に飲んで下さい」
言われた通り、滞在先のホテルのベッドで薬を飲む準備をする。
袋の中から出てきたのはイエローのカプセルだ。
水で一気に喉に流し込む。
気づいた時には、ホテルの外にいた。
どこかを飛んでいるらしく、空中をさまよっている。
アゲハ蝶になっていた。
黒と黄色の羽を思いきりのばすと、どこまでも高いところに行ける。
そして、花を見ると、寄り道したくなる。
今度は大きな桜の木にとまろう。
と、その時、全身を何かにおさえつけられた。
大きな網に引っかかり、虫カゴに入れられたようだ。
よく見たら、そこは昼間、訪ねた場所。ステンレスの壁の診察室だ。
「うまくいったよ。まあまあの仕上がりだ。
右の羽は黄色と黒のバランスが特にいい」
彼はドクター・クローネンバーグだろうか。顔は同じだが、声が少し違う。
すると、奥の部屋から、そっくりの男がもうひとり出てきた。
「意外におとなしいな」
どうやら、こちらが昼間の医者らしい。
「じゃあ、始めよう」
ひとりの医者が羽を握り、もうひとりはコットン・ボールに麻酔液を含ませる。
強烈なにおい。
意識がもうろうとして、ふたりの男たちの顔が重なったり、離れたりする。
最初の男が蝶の中心部を見る。細い肉の上部にピンの先端を突き刺す。
麻酔の効果はおそく、鋭い激痛が走る。
人間なら、首の後の骨がある位置、そう、あの時、
ドクターが手をふれたところだ。
「今度は下に、もう1本」
医者はピンを取り、刺す位置をそっと指先で確認する。
もう、抵抗できない。
けっして。
今度は下の痛みを覚悟する。
激しく迫ってくるもの。
それは痛み……ではなく、電話の音だ。
ベルで目覚めた。
もう、人間の体に戻っていた。
全身に汗をかき、受話器に手をのばす。
「今日はどうも。そろそろ薬の反応が出た頃かと思いました。何か、夢を?」
ドクター・クローネンバーグだった。
蝶になった夢を報告する。首すじの後にピンの痛みが生々しく残っている。
「気にしないで。東洋医学で使う針に似た効果ですから。
ぐっすり眠れば、疲れがとれるはずです」
電話を切ると、体中の汗がひいていく。
目を閉じると、また体が宙に浮かんでいた。
でも、それは形としては存在しない。
まるで空気のように南国のビーチを漂う。
やしの木が見え、青い空と白い砂浜が広がっている。
どこまでも、軽くなっていく。
青空だけで、
太陽がまったく見えないのが、ちょっと気がかりではあったが……。
