東京
神奈川
千葉
埼玉

Back Number
第1回プロローグ

▽最新の『ピンク映画探検隊』へ



加藤久徳
text by Hisanori Kato

第1回
 プロローグ

ピンク映画にはマスコミ試写がない
批評をするには、覚悟がいるのだ



ピンク映画界の新旧実力派16人がしのぎを削った<P-1グランプリ>。 昨年、7月末に中野武蔵野ホールで行われたこの企画は大盛況で幕を閉じた!
 Slow Train編集部の人たちの口車に乗せられて、大変なことになった。“ピンク映画”の批評をするのだ。「はい、判りました」と2つ返事は出来ないジャンルでありながら引き受けてしまった。キネマ旬報では切通理作なる人が専門的に批評を続けているが、僕はマメに見ていない。一般映画は邦洋合計で9割以上は見ているから恥じることはないのだが、一般的に“ポルノ映画”と呼ばれるピンク映画は、マスコミ関係者が仕事として見るのは難しい。なぜかと言うと、マスコミ試写というものが基本的にない。作られた作品はプリントが上がると、現像会社の試写室でプリント・チェックの意味を含めた製作関係者試写が1度だけ上映され(大蔵映画の場合、映倫向けに1回多く試写を回す)、そのまま劇場に回ってしまう。新聞紙上などに封切りの広告が載る程度で、宣伝というものはないに等しい。東京では2番館を含めて劇場が10数館しかないから、決まった系列で最初の封切りを終えたあとは、全国のピンク映画館をグルグル回る。文字通り“ロードショー”であり、プリントの本数を考えれば本物の“ミニ・シアター系”である。

 本気でピンク映画の批評をするには、それなりの準備と覚悟がいる。まず、普段劇場で何が上映されているか確認しなくてはならない。新聞の劇場欄を見ても題名の断片(ピンク映画のタイトルは長い。例えば、『人妻浮気調査 主人では満足できない』などなど)だけではピンク映画通でさえ識別はやっかいだ。いつの頃からか情報誌「ぴあ」は、映画の味方のような顔をしながら、ピンク映画の情報を打ち切った。ピンク映画を普通の映画と同等に扱ってきたファンをまず、この時点で遠ざけた。この影響は甚大なるものがあった。今このマイナスを補っているのは、ピンク映画専門雑誌「P・G」(月1回発行/林田義行氏編集)であり、関西では「ピンク・リング」というタブロイド誌(こちらも月刊)がある。どちらもピンク映画を愛する真のファンが作るだけあって、いい批評文が載っている。

日本映画量産の'60年代
ピンク映画は登場した


 ところで“ピンク映画”とは何か? ぴあから消された時点で死語同然になってしまったが、いわゆるポルノ映画と同じ意味を持つ。男女のセックス描写ばかりでユーザーの期待に応える“AV”とは違う。セックス描写に重点を置いた男女の人間ドラマ(ゲイ、レズビアンも含む)のことを指す。

 ピンク映画が初めて銀幕に登場したのは、'62年の『肉体の市場』(小林悟監督)であるという。まだ東宝、松竹、東映、大映、日活の各映画会社が凌ぎを削って日本映画を量産していた頃に、弱小映画会社の協立映画が製作し、新東宝を出ていった大蔵貢社長が設立した大蔵映画が配給した。主演は新東宝の役者だった浅見比呂志と日活の売れない女優だった香取環。今の感覚で見ればどうということのない性描写なのだが、公開2日後にワイセツ容疑で警視庁の手入れを受ける騒動に発展する。しかし、騒動が逆に宣伝となり、指摘された問題17箇所を修正して再公開すると、空前の大ヒットを呼んだ。この成功により成人映画時代が到来したのだ。

 この時の製作費がいくらかは定かでないが、'60年代からどこかの会社は300万円(1ドルが360円の時代)で定着しており、それは現在に至るまで変わっていない。いずれにしろ、テレビの影響と高度成長期のあおりを受けて転落の一途をたどっていたメジャー会社を尻目に、作れば当たる成人映画(ピンク映画のネーミングは'60年代後半らしい)は、ヌードが出れば何でもOKの制約ナシなので、監督たちがいろんなテーマを作品に盛り込んだ。この黄金時代を代表するのが'63年にデビューした若松孝二。彼は反社会、反権力的なテーマに凄まじいエロスを取り入れて成功した希有な作家となった。プロデュース作品を入れれば100本を遥かに超える作品数を誇る。ベルリン映画祭に出品され、“国辱”騒ぎを起こした『壁の中の秘事』('65)は彼の代表傑作だ。彼の下から足立正生、沖島勲、大和屋竺を輩出し、日本映画インディーズの原動力になったことは日本映画史上の事実。ピンク映画は日本映画を語るとき、切っても切れない重要なジャンルである。

ロマンポルノの功績
そして、これから…


 日活が一般映画製作を断念して“ロマン・ポルノ”を量産製作した'70年代に、ピンク映画界は山本晋也、高橋伴明、渡辺護、中村幻児が活躍し、'80年代は周防正行、滝田洋二郎、望月六郎らが登場した。彼らは皆、一般映画に進出して大きな足跡を残している。そして現在。'90年代半ばに“ピンク四天王”なるフレーズで脚光を浴びたのが、瀬々敬久、佐野和宏、佐藤寿保、サトウトシキの面々。彼らは〔新東宝=国映〕のラインから登場した新鋭たちで、昔ながらの300万円の予算で自らのアイデンティティーを確率しようと頑張っている。しかし、AVをはじめ、様々な強敵にさらされた現在では、彼らを取り巻く状況はあまりに過酷すぎる。この中で瀬々だけが『HYSTERIC』('00)の成功で一般映画に転身したが、佐藤は逆にAVを撮っている始末。佐野は俳優の仕事が忙しい(個性的で優れた役者である)。

 彼らの後に続く世代である上野俊哉、田尻裕司、榎本敏郎、女池充、今岡信治などが独自の作風を作ろうと努力をしているが、不況下での“300万円”の予算は哀しい。

 しかし、それはそれとして、これから当分の間は、ピンク映画を真剣に見ていくのである。



「スロウトレイン」に掲載の記事・写真・カット等の無断転載を禁じます。© Works m bros.