1週間ほど前の朝日新聞の夕刊に出久根達郎が、いま流行のキックボードの原型である「スケーター」(ぼくが子供の頃の昭和30年代には、これで辷(すべ)っている子供がけっこういた)は、円谷英二が大正時代に発明したのだ、と書いていた。鷺巣(さぎす)富雄の自伝にそうあったのだという。鷺巣富雄って誰かというと、これが、うしおそうじの本名だというのでおどろいた。うしおそうじは好きなまんが家で、10年ほど前に復刻された「朱房の小天狗」も買ったが、そういう本名の人で、自伝も出していたとは知らなかった。
そんな記事を目にした直後、ケーブルTVのキッズステーションで「うしおそうじ物語」という1時間番組を見た。これを見て、自分がいかに、うしおそうじについて何も知らなかったか、おどろくほどだった。
うしおそうじこと鷺巣富雄は、出久根達郎も書いていたが、円谷英二の弟子だったのだ。昭和14年に東宝の特技課線画室(アニメーション部門)に入社し、室長が出征中だったので特技課長の円谷から直接、特撮について教わった。鷺巣自身も兵隊にとられ、そのときの戦友がなんと三船敏郎。三船はまだ東宝入社前だが、撮影部にいくことが内定していた。軍隊での三船の男気あふれるエピソードの数々が、まるで映画みたいに三船的で、感動させられる。
戦後、東宝争議のあと、鷺巣はまんが家に転向。牛尾走児、のちに、うしおそうじとなるペン・ネームは、潮騒児(うしおそうじ)という子供の頃に好きだった詩人からいただいたという。弟子だった高井研一郎、永島慎二が言うように、細密でありながら、すっきりとまとまっていてかわいいうしおの絵は、TV画面に短い時間映される昔の本を見ても、ほんとに魅力的である。
しかし、まんがが週刊誌の時代になるころには、うしおはもうかかなくなっていた。ぼくは、そのあとのことはまったく知らなかったのだが、彼は親しかった手塚治虫と同じように、ピー・プロダクションという会社を興して、TVアニメの特撮の製作を始める。円谷英二から教わったものが、ここで生きるのだ。
「0戦はやと」「ハリスの旋風」「マグマ大使」。作品名を並べられれば、みんな知っている。あのうしおそうじが、これをつくっていたのか。このジャンルのファンにはよく知られていることなのかも知れないが、門外漢だったぼくは、とにかくおどろき、うれしい1時間だった。
それにしても、うしおそうじの昔のまんがを読みたいものだ。昭和30年代のあったかい日の光がそこに詰まっている気がする。
